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神様の無限の素晴らしさと美しき御業を垣間見る②

 全能の神様は、私たちの想像や理解をはるかに超えた壮大な天上の創造物を私たちに垣間見させてくださっています( 前回の記事① )。  それから、神様は「地はあらゆる種類の草木と果樹を生えさせ、あらゆる種類の生き物、あらゆる生命を生み出せ」と仰せになり(創世記 1 ・ 11-12 、 20-25 参照)、地球には生命の爆発的増加がありました。  最も深く、最も暗い洞窟や最も深い海に行けば、生命はそこにあり、今もなお新しい種の生命が発見されつつあります。高速道路や外壁を作るために使用されるコンクリートでさえ、少しの汚れがそのコンクリートの小さな割れ目にあれば、生命が必然的にそこから湧き出し始めるでしょう。  地球上には 800 万種を超える動植物が生息していると推定されています。いくつか具体例を挙げれば、その数の意味が分かりやすくなるかもしれません。  ワシには 60 種以上、カメには 350 種以上います。カンガルー(約 50 種)やコアラやウォンバットが属する有袋類には 330 種、子どもたちに大人気のカブトムシを含む甲虫類には 35 万種以上います。ユーカリの木は 700 種以上あり、約 40 万種の顕花植物があります。そのうち蘭科は 35,000 種で最多です。  太陽が昇っているうちに目を覚まし、外に出て耳を傾ければ、鳥(約 18,000 種)がさえずっているのが聞こえてきます。生命はどこにでもみつかることができるが、すべての条件が完璧でなければなりません。例えば、私たちがよく当たり前のように思っている酸素は地球の大気の 21% を占めているが、それより少しでも多ければ、私たちは止まらない火事で焼けてしまい、少しでも少なくなると、皆窒息してしまうでしょう。  また、太陽からの距離はほとんど信じられないほど完璧です。生命を持つためには液体の水が必要です。それは私たちの太陽からの距離のため、私たちがたまたま享受できる非常に狭い温度範囲内でのみ可能になっています。この繊細で完全に維持されたバランスからの些細な逸脱があれば、地球上のすべての生命が破壊されてしまうでしょう。  神様は自然界と超自然界の神であり、偉大な神聖なる芸術家です。私たちは、神が誰であり、神が私たちの目に見える世界でどのように働いているかの痕跡が...

神様の無限の素晴らしさと美しき御業を垣間見る①

 別に専門家でもなければマニアでもないが、昔から機会があれば、宇宙や大自然のこととそれらの現象を軽い気持ちで学ぶのが好きです。それは旧約聖書のシラ書(42・15~43・33、「自然界における神の偉大さ」)を読んでからがきっかけてす。科学の進歩とそれによる様々な発見に基づき、神様の御業に対する驚嘆を少しでもより深く感じたいと思ったからです。  「澄み渡る大空は天の高みの誇り。     天の姿は栄光に満ちた眺め。  太陽は現れる時、日の出の時、あまねく告げる。  いと高き方の御業はなんと驚くべきものか。  星々の輝きは天の美。  主のいと高き所にあって輝く飾り。」(シラ43・1-2, 9)  私たちの太陽は巨大です。100万個以上の地球は、端から端まで約160万キロメートルの太陽にきれいに収まります。そして天の川には、太陽と同じような星が20億から30億あります。  海浜に行って一握りの砂を拾えば、1万粒ほどの砂を手に持つことになるそうです。宇宙には、地球上のすべての海浜の砂粒よりも多くの星があります。神様はそれらの星すべてを口の息によって造られ、それらすべての名前を知っておられる、と聖書が教えてくれています(イザヤ40・26、詩編33・6、147・4参照)。  神は言われた。「光あれ」。すると光があった(創世記1・3)。  忘れてしまった方もおられるかもしれませんが、光は秒速約30万キロメートルで進みます。この速度では、光は地球の赤道(約4万キロメートル)を1秒間に7回旋回できます。太陽の光が私たちの肌に届くまで8分かかりますが、一般巡航時速800キロメートルで飛ばすジェット旅客機が太陽に到達するには18年かかるでしょう。  私たちの銀河は端から端まで約10万光年あります(1光年は約9.5兆キロメートル)。私たちのジェット旅客機がその旅をすれば1000億年かかるでしょう。私たちの最も近い恒星は4光年離れていますが、そのジェット機がそこに到達するまでに550万年かかるでしょう。  更に想像を広げてみましょう。私たちの知られている宇宙は端から端まで約120億から150億光年であり、なお常に広がっています。現代の科学的証拠によれば、観測可能な宇宙には少なくとも1000億個の...

パソコンに残っていたヤコブの手紙の一口メモ

 新年あけましておめでとうございます。  先日、久しぶりに自宅のパソコンのデータをクリーンアップしていた時、ずっと放置していた多くのデータファイルの中、あるファイルの内に書いてある一口メモを目にしました。  「James 4:13-16、Never forget! 」(ヤコブ4・13₋16、決して忘れるな!)  20年以上も前に自分自身に残したメモでした。自分にとって大事な聖句の一つであったから、従うことを忘れないようにメモっておきました。しかし、久しぶりにこのメモを再び見れば、やはり時が経つに連れて、その教えをしばしば忘れたりすることがあることに気が付きました。   「 13  さて、『今日か明日、これこれの町へ行って一年滞在し、商売をして一儲けしよう』と言う人たち、   14  あなたがたは明日のことも、自分の命がどうなるかも知らないのです。あなたがたは、つかの間現れ、やがては消えてゆく霧にすぎません。   15  むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。   16  ところが実際は、見栄を張り誇っています。そのような誇りはすべて悪です。」  一見、使徒ヤコブは商人や金儲けを考えている人たちを批判しているようですが、実際には年齢と関係なくすべての人たちに向けた教えなのです。当時私が尊敬していたあるお年寄りの神父様がそう教えてくれました。「何かを計画して、目的(目標)があって、そのために一定の時間を投入し、ある特定の行動を遂行して、ある特定の結果(報い)を求め得ること、すなわち第13節に書かれていることに、学生を含めほとんどの人たちが網羅されているのだ」と語ってくれました。  ここでの問題は、計画を立てることではありません。使徒ヤコブは、計画を立てることが罪深い、または愚かだとは言っていません。彼は第15節で、あのことやこのことを計画したり行ったりすること自体は合理的であるとほのめかしています。また、ルカ福音書にも「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか 」(ルカ14:28)。  むしろ、使徒ヤコブが指摘しているのは、完全な自立、自分の能力に対する自信、そして謙...

心に留め、思い巡らすこと

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 マリア様のことが美しく描かれているクリスマスカードをよく見かけます。馬小屋の中で、きれいな服に覆われ、飼い葉桶に寄りかかり、柔らかい笑みを浮かべながら、生まれたばかりの幼子イエスを抱えようとしているマリア様です。  これらの画像は、マリア様の内面的美しさの真実、すなわち彼女の純粋さ、神聖さ、そして御子へのひたむきな献身を大いに指し示していると思います。しかし、これらの画像は素晴らしいとは言え、マリア様が実際に何を経験していたか、何を考えていたかを完全に描かれることができません。  すでに妊娠第三半期のマリア様は、ローマ皇帝の勅令により、ヨセフと一緒にナザレからベツレヘムに行かなければなりませんでした(ルカ2・1‐7)。インターネットの地図によればおよそ 160km ある距離です。それはだいたい東京の小金井市から国道 246 号経由で静岡市までにあたる距離です。現代において、妊娠第三半期に旅をしたい妊婦はいるでしょうか。ましてや、ロバに乗って、上り坂と下り坂が多く、ユダヤ砂漠を通る長い旅です。  そのような過酷な旅を経てベツレヘムに到着したマリア様は、やっと出産に向かいゆっくり休めるかと思いきゃ、しかしちゃんと宿泊できる場所はありませんでした。結局、マリア様は馬小屋の中で出産せざるを得なくなり、飼い葉桶以外に、自分から生まれてきた赤ん坊を寝かせるまともな場所がありませんでした。これはどの母親にとっても辛い体験のはずだと思いますが、それに加え、マリア様にとってどれほど困惑していたかは想像できるでしょう。彼女は 9 ヶ月前に天使ガブリエルから、この子は神の御子であり、偉大な王であるメシアになると告げられたのではありませんか(ルカ 1 ・ 32-33 参照)。それなのに、なぜメシアはこのような貧困、謙遜さ、拒絶された状態でこの世に入られたのでしょうか。  マリア様にとって、赤ちゃんを身籠って過酷な長い旅を経て、極度の貧困状態での出産がおそらく一番辛いことではなかったと思います。むしろ、通常母親が生まれたばかりの赤ちゃんに与えられるゆりかごでさえ、神の御子にささげられなく、その代わりに、いと高き神の御子の尊厳とは非常に対照的な飼い葉桶に幼子メシアを寝かせざるをえないことが、マリア様にとって、メシアの母親として、また主の婢女として、一...

「日日是好日」―典礼暦年を生きる

 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、「日日是好日」(にちにちこれこうじつ)という禅語があります。単に文字通りの「毎日が良い日である」という意味ではなく、どんな雨風があろうとも、日々におきる好悪の出来事があっても、この一日は二度となく、かけがえのない一日であり、この一日を全身全霊で生きることができればまさに日々是好日となる、という大概の禅的解釈になります。  「日日是好日」は好きな禅語の一つですが、このことばは一キリスト者の私にとって、典礼暦年を生きることのあり方、キリストを中心とした生活のあり方を指さす道しるべの一つです。  大自然を導く四季があるのと同じように、教会は主イエス・キリストの生涯を中心に構成されている典礼暦に導かれています。待降節(アドベント)、降誕節(クリスマス)、四旬節、復活節(イースター)の主要典礼季節と「年間」と呼ばれるそれ以外の週間を通じて、教会は「一年を周期としてキリストの神秘全体を受肉と降誕から、昇天へ、ついで聖霊降臨へ、さらに幸いなる希望と、主の来臨との待望へと展開しています」(カトリック教会のカテキズム、1194項)。  人によって、あまりにもそれに慣れているため、典礼暦を単に教会の儀式に使われるカレンダー、あるいは儀式的装飾の一部として扱う傾向があるかもしれません。ローマ数字の文字盤をもつ装飾的「マントル時計」(棚に置く小さな置時計)のように、見栄えはよいが実際には誰も時刻を告げるのに使っていません。  かつて私がそのように思っている時期がありました。普段の生活の中で様々な責務などを果たしたり、世のさわぎや価値観に従ったりして、世の基準に基づいた生活のペースやリズムがマイカレンダーの中心でした。  しかし、使徒パウロがこう教えてくれます。「あなた方は主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれた者として生活しなさい。教えられたとおり、キリストのうちに根を下ろし、自分を築きあげ、信仰をかためなさい」(コロサイ2・6-7)、「主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマ13・14)。それに従いたければ、まずは教会の典礼暦を生活に取り入れる必要があることに気が付きました。  典礼暦は世俗暦の上に重ねて用いることができると思います。道路地図(世俗暦)へのオーバーレイ(重ね合わ...

王であるキリストをほめたたえよ

(教会の典礼暦年最後の主日に向け、王であるキリストをほめたたえます。)  初めに御言葉があった。  御言葉は神であった。 (ヨハネ1・1)  御言葉は無力な新生児として  天から来られ、  ご自分の栄光を蔽い、  私たちの間に住まわれた。  仕えられるためではなく  仕えるために、 (マタイ20・28)  私たちが生きることができるように  ご自分の命を献げるために来られた。  涙の庭において、  私の重荷を背負われ、  悲痛なみこころが引き裂かれ  「しかし、わたしの思いではなく、  御父の御旨が行われるように」と、 (ルカ22・42)  私を思われ仰せになった。  見よ、癒しを与えられた御手、  油注がれた御足、  アガペーの愛を語る深い傷跡を。  自ら進んで残酷な釘に差し伸べられ、  全ては私のために行われた。  王であるキリストをほめたたえよ、  私の内にある全てのものよ、  聖なる御名をたたえよ、 (詩編103・1)  全ての名に勝るみ名をほめたたえよ。 (フィリピ2・9)  御名はインマヌエルと呼ばれ、 (イザヤ7・14、マタイ1・23)  驚くべき助言者、力ある神、  永遠の父、平和の君と呼ばれる。 (イザヤ9・5)  アルファでありオメガてある  万物の支配者。 (黙示録1・8、22・13)  生ける神の子、メシア、 (マタイ16・16)  善い羊飼い、 (マタイ10・11)  道であり、真理であり、命である。 (ヨハネ14・6)  王の王、主の主、 (黙示録19・16)  世の罪を取り除く神の小羊。 (ヨハネ1・29)  私の心を調べられ、  私を知り尽くしておられ、 (詩編139・1)  私を導かれ、  聖なるご存在で私を満たしたまえ。  王であるキリストをほめたたえよ、  私の主、私の神よ。 (ヨハネ20・28)  アーメン。     [関連記事] 弱いものの中におられる、王であるキリスト

「アヴェ・マリアの祈り」、聖書のルーツをもつキリスト中心のお祈り

天と地の驚嘆  わたしはカトリックの家庭で育ち、家族全員が一緒にロザリオを祈る習慣がありました。また、小学校から高校まで通っていた各カトリック学校でもロザリオを祈る機会が多かったため、小さい頃から馴染んできたお祈りです。  ロザリオの中で唱えられる「アヴェ・マリアの祈り」の前半は、天使ガブリエルと聖エリサベトがおとめマリアに向けた言葉から取られています。自分の洗礼名がガブリエルだからか、小さい頃からこのお祈りに特に親しみを感じています。  聖母マリアについてのお祈りだとずっと思っていましたが、何年も後に、聖ヨハネ・パウロ二世の 使徒的書簡「おとめマリアのロザリオ」 (2002/10/16” Rosarium Virginis Mariae ”) を読んだことで、深い感銘を受け、このお祈りについての理解が深まり、祈り方も大きく変わりました。  「アヴェ・マリアの祈り」は一見、主に聖母マリアについてのお祈りのようで すが、実はキリスト中心のお祈りです。このお祈りはわたしたちの注意をイエス・キリストに向けることを果たしています。聖ヨハネ・パウロ二世はこう強調します、「『アヴェ・マリアの祈り』の繰り返しが、直接マリアに向けられているが、彼女と共に、彼女を通して、愛の祈りがイエスに向けられることになるのです」(「おとめマリアのロザリオ」、26 項) 。 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、 主はあなたとともにおられます。(ルカ1 ・28 を参照) あなたは女のうちで祝福され、 ご胎内の御子イエスも祝福されています。( ルカ1 ・42 を参照)  この天使ガブリエルと聖エリサベトがメシアの母に向けたあいさつのことばは主におとめマリアに焦点を当てているのではなく、彼女の胎内での御子の受肉の神秘をめぐる「天と地の驚嘆」(「おとめマリアのロザリオ」33 項を参照)に焦点を当てているのです。  天使ガブリエルは聖母マリアが生まれるずっと前から存在していました。彼は世界創造の前から、全能の神に仕え、聖なる、無限の神を賛美し、崇拝してきました。ある日、彼がこの全能の神のもとから、小さな地球にあるナザレと呼ばれる小さな町の一人のおとめ のもとに遣わされました。天使ガブリエルは、彼と万軍の仲間天使たちが世界創造の前から崇拝して...