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聖霊降臨の日に、思いめぐらすことは...

  聖霊は息のようなものであり、 1日2万回と言われる呼吸の親密なリズムのように、私たちが気づくのを忘れてしまうほど、支えてくださる。  初めに、神様は息を吹き込まれた。そして塵で形づくられた人は息を吸い返し、生きる者となった (1) 。ヨブは命のことを、与えられ、取り去られるものである「私の鼻にある神の息吹」として知っていた (2) 。御息によって、創造主は星を灯され、水底を現され、平野に枯れ果てていた骨を目覚めさせられ、聖なる著述に霊感を与えられた (3) 。  聖霊は同じように、数え切れないほど日常の物事にて、元気づけ、生き返らせ、養わせ、支え、語りかけてくださる。聖霊は空気のようにどこにでもおられ、私たちの体に宿ってくださること (4) を意識しよう。   注:(1) 創世記2・7 (2)ヨブ27・3 (3)詩編33・6、18・16、エゼキエル37・5、Ⅱテモテ3・16 (4)Ⅰコリント6・19   聖霊は火のようなものであり、 御父のもとから注ぎ出され、力強く、深遠な変化をもたらしてくださる。  火には単一の形も姿もなく、森林を貫いて燃え盛ることも、余燼の中を飛び回ることもできるし、熱い炭の中でただ静かに発光することもできるが、決して持たれることはできない。生きている者は、熱や光、空を蛇行する煙、燃える木の匂い、灰による目の中の痒みなどを通して、火のことを間接的に知ることしかできない。  火はものを焼き尽くし、その破壊の中で創造し、その創造の中で破壊する。金属を精錬する炎は金を浄化するように、聖霊の炎は、人を変化させ、臆病な者を勇気あるキリスト者に、悔い改める罪人を聖人に、卑しい者を神の道具や聖なる教会の大黒柱に変化させられる。  神様が荒野で、選ばれた民を導かれた時、毎晩、御霊の火の柱によって民を照らされ、幕屋を包まれた (5) 。そして、神様が聖なる教会を創られた時、聖霊の炎はその選ばれた弟子たちの上にとどまった (6) 。「霊の火を消してはいけない」 (7) と使徒パウロが忠告されるように、聖霊の力は不可欠で必要であることを意識しよう。  注:(5)出エジプト13・21、民数記9・15 (6)使徒2・3 (7)Ⅰテサロニケ5・19   聖霊は封印のようなものであり、 家紋を冠した紋章であり、帰属、保護、恵みの約束である。柔らかな蝋に押しつく証印のよう

聖母マリアが私たちに語られた言葉

 先日の夕食にワインが添えられたからか、主イエスが最初のしるしを行われた「カナでの婚礼」(ヨハネ2・1-11参照)で、聖母マリアが語られた言葉を思い起こされました。  「(イエスの)母は召し使いたちに、『この方が言いつけるとおりにしてください』と言った。」(ヨハネ2・5)。  この物語は、マリア様とイエス様がご出席された婚礼の話で、祝宴が終わる前にワインがなくなってしまいました。これは、婚礼の祝宴が数日間続く公の行事でもある1世紀のユダヤ文化では大きな問題であり、もし誰かがワインのおかわりを頼んでもワインがなかったら、新郎新婦とご家族は大恥をかき、そして社会的評判も損なわれるところだったでしょう。  このことを知ったマリア様は直ぐにイエス様に告げ、それから祝宴の召し使いたちに、「この方が言いつけるとおりにしてください」と言われました。つまり、マリア様は召し使いたちに、彼らがイエス様の言われることを忠実に実行する限り、イエス様は問題を解決してくださると言っておられたのです。  これは、聖書に記されている聖母マリアが語られた最後の言葉です。主イエスが最初のしるしを行われる直前、また、公生活の3年間の始まりに御母が語られた言葉です。それは単なる祝宴の召し使いたちへのメッセージではなく、聖母から主イエス・キリストに従うキリスト者である私たちへの大切な言葉だと思います。  これは、聖母マリアが生涯生きておられたキリスト者の生き方であり、そしてご自身のご経験に基づいた、私たち子供たちへの愛情のこもった励ましの言葉なのです。その言葉の前に、御母が「怖がらないで」と言っておられるのが聞こえるような気はしませんか。  物語の中の召し使いたちは、イエス様が何をしようとしているのか理解していなかったにもかかわらず、イエス様の言われたことを忠実に実行しました。 イエス様は,ユダヤ人が清めに用いる六つの大きな石の水がめに水を入れて,それを宴会の世話役のところに持って行くようにと指示されました。  物語のこの部分を読むたびに、召し使いたちがイエス様の言葉にどのように反応していたかをいつも想像しています。  「え?私たちに何をしろと言うのですか」と、彼らはイエス様が狂っているとさえ思っていたに違いないと思います。これまでイエス様はまだ何の奇跡も起こされていなかったため、召し使いたちは主の奇跡の力

美しき聖なる親子水入らずの再会

 復活節の半ば、教会が伝統的に聖母マリアに捧げる5月の「聖母月」が始まりました。  この時期になると、何年も前のある復活祭のミサの後で、なぜか次のような疑問が頭をよぎったのを、思い起こします。  「福音書には、ご復活された主イエスは様々な人に現れたことが記されているが、なぜマリア様に現れたことについて何も書かれていないだろう?それが起こらなかったことを意味しているのか?」  福音書に記載がないことは、主がマリア様に現れなかったことを示しているとは思いませんでした。なぜなら、主が「500人以上の兄弟たちに同時に現れた」(Iコリント15・6)と、使徒パウロが証ししていますが、そのようなたくさんの人たちが関わった出来事は福音書にも記されていないからです。  また、マリア様ご自身も確かに、聖霊降臨の直前まで集まっていた弟子たちの共同体と共におられたため(使徒言行録1・14)、ご復活後の40日間、主はマリア様のもとに御姿を現されなかったのは考えにくいと思いました。  とは言え、御母であるマリア様は主イエスが飼葉桶にお生まれになった時から十字架の上に亡くなられた時まで共におられたため、正直、ご復活された主がマリア様への御出現について、一言でもよいので福音書記者に記してほしかったな、と思っていました。  それから、その翌年の復活節の頃だったかもしれませんが、なぜかまた、このことをより深く考え始めました。  あくまでも自分なりの思いでしたが、主イエスがご復活の後にマリア様にも現れただけでなく、マグダラのマリアや弟子たちよりも、他の誰よりも、先にマリア様に御姿を現されたではないかと思うようになりました。なぜそう思っていたかと言えば、次のような場面を思い巡らして想像していたからです。  マグダラのマリアをはじめ婦人たちが日の明け方に墓に行ったが、主はすでにご復活され、マリア様も彼女たちと共におられなかったのです。なぜなら、主がすでにマリア様に御出現されたからのではないだろうか?  お墓に行った婦人たちは、聖金曜日に、心が揺らぐことなく、ずっと主と共にいた忠実な者だったため、最初にご復活された主と会う人たちに選ばれたのかもしれない。だとすれば、聖金曜日に、主に非常に忠実なもう一人の方がおられた。それがマリア様だった。  マリア様はご自分の息子である主イエスの受難と十字架に対して、比類なく