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ロザリオを祈るのが好きな理由

 ロザリオは、私が子供の頃から馴染んできたお祈りですが、大人になり、教皇聖ヨハネ・パウロ二世の書簡「おとめマリアのロザリオ」(2002年10月16日)を読んでからは、ロザリオの祈りの意義、とりわけ、その中心となる「アヴェ・マリアの祈り」についての理解が深まり、その祈り方も変わりました。  昨年、前述のことについて分かち合いさせていただいたので、よろしければお読みいただければと思います( 「アヴェ・マリアの祈り」、聖書のルーツをもつキリスト中心のお祈り )。  ロザリオの祈りは私にとって、大海原のようなものです。我ら主との祈りをより深めたい人も、祈り方を学び始めた人も、または、生活の中で何かが起こっているとき、主の助けを求める人も、ロザリオは誰にでも有益で素晴らしい祈りです。深海探検家と浜辺で砂のお城を作る子供は同じ海でも、レベルが違っていても十分に堪能することができます。これはロザリオにも当てはまるのではないかと思います。  なぜなら、ロザリオを構成する主な祈り(主の祈り、アヴェ・マリア、栄唱)と、それに伴う福音書の主イエスの主な出来事の黙想は、すべて主キリストを中心とし、聖書に基づいた祈りだからです。そのため、ロザリオという海の浅瀬でも深海でも、私たちは主イエスに出会うことができるのです。  そして、私たちの御母、聖母マリアも共におられ、私たちを率いて共に主への祈りを捧げてくださるのです。聖母マリアが言われます。 「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1・46~47) 。 「この方 (主イエス) が言いつけるとおりにしてください」(ヨハネ2・5)。 私たちがロザリオの祈りを通して、御母と共に、主イエスに出会い、主イエスに祈りを捧げることが、御母マリアは誰よりも喜ばれるのではないでしょうか。  ロザリオの祈りは、私たちを主イエスと御母の御前に置かせてくれることで、私たちにはいつもプラスな体験をもたらしてくれます。主イエスと聖母マリアと一緒に過ごす時間が多ければ多いほど、私たちの日常生活に、主と聖母の愛がより反映されることができると思います。  ロザリオを祈り、福音の玄義を黙想することもまた、私たちにプラスな影響を与えてくれます。私たちがその黙想を通して福音に浸すことで、より一層主イエスに近づくことができ、主を仰ぎ、御言葉を聞くことができ、

「人生の本当の悲劇」は何?

  学生であろうと社会人であろうと、私たちは日常生活の様々な場面で、本や文書の中で、蛍光ペンを使って注意したい、覚えておきたい大事なことや情報をハイライトし、強調していると思います。それは私たち自身のためだけでなく、目的によっては他人のためでもあります。  ここ数日、仕事で分量の多い新旧の書類を精査していたとき、久しぶりに連日、立て続けに蛍光ペンを使っていたからかもしれませんが、ちょっと考えさせられることがありました。  蛍光ペンで文書をハイライトする活用法は、各々の目的や好みによって十人十色なので、それを論じるつもりはありませんが、活用法や目的が何であれ、役に立つようなハイライトには概ね3つの基本的なステップが必要だと思います。まず、内容をよく読むこと。次に、ここで大事なことは何かをよく考え、問うこと。そして最後に、これが本当に大事なことであり、強調すべきことである、と判断し決めることです。  これは簡単そうで、当たり前のように思えますが、この3つのステップをどのように進めていけばいいのでしょうか。その質によって、最終的には、「何が本当に重要なのか自分でも分からないほど多くのハイライトを表示する」、あるいは「自分の目的に合った適切なハイライトが表示され、自分にとって本当に重要なものは、それを見た誰にでも、すぐに分かるようにする」、のどちらかでしょう。  考えてみると、私たちが重要だと思っていることは、それに対しての私たちの価値観も表していると思います。それは、各々個人的な知見や経験など、様々な要素の影響を受けながらその判断の基準が形成されているのです。そのため、皆が全く同じ文書を読んでいても、必ずしも、皆が同じことをハイライトして強調するわけではありません。  しかし、よく考えずに、あまりにも多くのことを重要だ、と決めつけ、無差別のようにハイライトしてしまうと、自分にとって本当に重要なものや価値観を見失うことになってしまうのではないかと思います。  同じことが、私たちキリスト者にも言えると思います。聖パウロがこう教えてくれます。  「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです」(IIコリント5・17)、「心の霊において新たにされ、真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって造られた新しい人を着なさい」(