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心に留め、思い巡らすこと

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 マリア様のことが美しく描かれているクリスマスカードをよく見かけます。馬小屋の中で、きれいな服に覆われ、飼い葉桶に寄りかかり、柔らかい笑みを浮かべながら、生まれたばかりの幼子イエスを抱えようとしているマリア様です。  これらの画像は、マリア様の内面的美しさの真実、すなわち彼女の純粋さ、神聖さ、そして御子へのひたむきな献身を大いに指し示していると思います。しかし、これらの画像は素晴らしいとは言え、マリア様が実際に何を経験していたか、何を考えていたかを完全に描かれることができません。  すでに妊娠第三半期のマリア様は、ローマ皇帝の勅令により、ヨセフと一緒にナザレからベツレヘムに行かなければなりませんでした(ルカ2・1‐7)。インターネットの地図によればおよそ 160km ある距離です。それはだいたい東京の小金井市から国道 246 号経由で静岡市までにあたる距離です。現代において、妊娠第三半期に旅をしたい妊婦はいるでしょうか。ましてや、ロバに乗って、上り坂と下り坂が多く、ユダヤ砂漠を通る長い旅です。  そのような過酷な旅を経てベツレヘムに到着したマリア様は、やっと出産に向かいゆっくり休めるかと思いきゃ、しかしちゃんと宿泊できる場所はありませんでした。結局、マリア様は馬小屋の中で出産せざるを得なくなり、飼い葉桶以外に、自分から生まれてきた赤ん坊を寝かせるまともな場所がありませんでした。これはどの母親にとっても辛い体験のはずだと思いますが、それに加え、マリア様にとってどれほど困惑していたかは想像できるでしょう。彼女は 9 ヶ月前に天使ガブリエルから、この子は神の御子であり、偉大な王であるメシアになると告げられたのではありませんか(ルカ 1 ・ 32-33 参照)。それなのに、なぜメシアはこのような貧困、謙遜さ、拒絶された状態でこの世に入られたのでしょうか。  マリア様にとって、赤ちゃんを身籠って過酷な長い旅を経て、極度の貧困状態での出産がおそらく一番辛いことではなかったと思います。むしろ、通常母親が生まれたばかりの赤ちゃんに与えられるゆりかごでさえ、神の御子にささげられなく、その代わりに、いと高き神の御子の尊厳とは非常に対照的な飼い葉桶に幼子メシアを寝かせざるをえないことが、マリア様にとって、メシアの母親として、また主の婢女として、一

「日日是好日」―典礼暦年を生きる

 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、「日日是好日」(にちにちこれこうじつ)という禅語があります。単に文字通りの「毎日が良い日である」という意味ではなく、どんな雨風があろうとも、日々におきる好悪の出来事があっても、この一日は二度となく、かけがえのない一日であり、この一日を全身全霊で生きることができればまさに日々是好日となる、という大概の禅的解釈になります。  「日日是好日」は好きな禅語の一つですが、このことばは一キリスト者の私にとって、典礼暦年を生きることのあり方、キリストを中心とした生活のあり方を指さす道しるべの一つです。  大自然を導く四季があるのと同じように、教会は主イエス・キリストの生涯を中心に構成されている典礼暦に導かれています。待降節(アドベント)、降誕節(クリスマス)、四旬節、復活節(イースター)の主要典礼季節と「年間」と呼ばれるそれ以外の週間を通じて、教会は「一年を周期としてキリストの神秘全体を受肉と降誕から、昇天へ、ついで聖霊降臨へ、さらに幸いなる希望と、主の来臨との待望へと展開しています」(カトリック教会のカテキズム、1194項)。  人によって、あまりにもそれに慣れているため、典礼暦を単に教会の儀式に使われるカレンダー、あるいは儀式的装飾の一部として扱う傾向があるかもしれません。ローマ数字の文字盤をもつ装飾的「マントル時計」(棚に置く小さな置時計)のように、見栄えはよいが実際には誰も時刻を告げるのに使っていません。  かつて私がそのように思っている時期がありました。普段の生活の中で様々な責務などを果たしたり、世のさわぎや価値観に従ったりして、世の基準に基づいた生活のペースやリズムがマイカレンダーの中心でした。  しかし、使徒パウロがこう教えてくれます。「あなた方は主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれた者として生活しなさい。教えられたとおり、キリストのうちに根を下ろし、自分を築きあげ、信仰をかためなさい」(コロサイ2・6-7)、「主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマ13・14)。それに従いたければ、まずは教会の典礼暦を生活に取り入れる必要があることに気が付きました。  典礼暦は世俗暦の上に重ねて用いることができると思います。道路地図(世俗暦)へのオーバーレイ(重ね合わ

王であるキリストをほめたたえよ

(教会の典礼暦年最後の主日に向け、王であるキリストをほめたたえます。)  初めに御言葉があった。  御言葉は神であった。 (ヨハネ1・1)  御言葉は無力な新生児として  天から来られ、  ご自分の栄光を蔽い、  私たちの間に住まわれた。  仕えられるためではなく  仕えるために、 (マタイ20・28)  私たちが生きることができるように  ご自分の命を献げるために来られた。  涙の庭において、  私の重荷を背負われ、  悲痛なみこころが引き裂かれ  「しかし、わたしの思いではなく、  御父の御旨が行われるように」と、 (ルカ22・42)  私を思われ仰せになった。  見よ、癒しを与えられた御手、  油注がれた御足、  アガペーの愛を語る深い傷跡を。  自ら進んで残酷な釘に差し伸べられ、  全ては私のために行われた。  王であるキリストをほめたたえよ、  私の内にある全てのものよ、  聖なる御名をたたえよ、 (詩編103・1)  全ての名に勝るみ名をほめたたえよ。 (フィリピ2・9)  御名はインマヌエルと呼ばれ、 (イザヤ7・14、マタイ1・23)  驚くべき助言者、力ある神、  永遠の父、平和の君と呼ばれる。 (イザヤ9・5)  アルファでありオメガてある  万物の支配者。 (黙示録1・8、22・13)  生ける神の子、メシア、 (マタイ16・16)  善い羊飼い、 (マタイ10・11)  道であり、真理であり、命である。 (ヨハネ14・6)  王の王、主の主、 (黙示録19・16)  世の罪を取り除く神の小羊。 (ヨハネ1・29)  私の心を調べられ、  私を知り尽くしておられ、 (詩編139・1)  私を導かれ、  聖なるご存在で私を満たしたまえ。  王であるキリストをほめたたえよ、  私の主、私の神よ。 (ヨハネ20・28)  アーメン。     [関連記事] 弱いものの中におられる、王であるキリスト

「アヴェ・マリアの祈り」、聖書のルーツをもつキリスト中心のお祈り

天と地の驚嘆  わたしはカトリックの家庭で育ち、家族全員が一緒にロザリオを祈る習慣がありました。また、小学校から高校まで通っていた各カトリック学校でもロザリオを祈る機会が多かったため、小さい頃から馴染んできたお祈りです。  ロザリオの中で唱えられる「アヴェ・マリアの祈り」の前半は、天使ガブリエルと聖エリサベトがおとめマリアに向けた言葉から取られています。自分の洗礼名がガブリエルだからか、小さい頃からこのお祈りに特に親しみを感じています。  聖母マリアについてのお祈りだとずっと思っていましたが、何年も後に、聖ヨハネ・パウロ二世の 使徒的書簡「おとめマリアのロザリオ」 (2002/10/16” Rosarium Virginis Mariae ”) を読んだことで、深い感銘を受け、このお祈りについての理解が深まり、祈り方も大きく変わりました。  「アヴェ・マリアの祈り」は一見、主に聖母マリアについてのお祈りのようで すが、実はキリスト中心のお祈りです。このお祈りはわたしたちの注意をイエス・キリストに向けることを果たしています。聖ヨハネ・パウロ二世はこう強調します、「『アヴェ・マリアの祈り』の繰り返しが、直接マリアに向けられているが、彼女と共に、彼女を通して、愛の祈りがイエスに向けられることになるのです」(「おとめマリアのロザリオ」、26 項) 。 アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、 主はあなたとともにおられます。(ルカ1 ・28 を参照) あなたは女のうちで祝福され、 ご胎内の御子イエスも祝福されています。( ルカ1 ・42 を参照)  この天使ガブリエルと聖エリサベトがメシアの母に向けたあいさつのことばは主におとめマリアに焦点を当てているのではなく、彼女の胎内での御子の受肉の神秘をめぐる「天と地の驚嘆」(「おとめマリアのロザリオ」33 項を参照)に焦点を当てているのです。  天使ガブリエルは聖母マリアが生まれるずっと前から存在していました。彼は世界創造の前から、全能の神に仕え、聖なる、無限の神を賛美し、崇拝してきました。ある日、彼がこの全能の神のもとから、小さな地球にあるナザレと呼ばれる小さな町の一人のおとめ のもとに遣わされました。天使ガブリエルは、彼と万軍の仲間天使たちが世界創造の前から崇拝して

信仰の殿堂

 先日の年間第19主日のミサの第二朗読で、ヘブライ人への手紙11章(ヘブライ11章)のアブラハムの信仰についての箇所が読まれました。  中学生の時、初めてヘブライ11章を読んだ時のことを今でも覚えています。自ら聖書を手に取って読み始めた頃でした。旧約聖書は難しそうだったから、新約聖書から読み始めました。  しばらくの間を経て、ヘブライ11章まで読み終えた時、その章に挙げられた「信仰のヒーローたち」が深い印象に残り、彼らのことをもっと知るため、旧約聖書も読み始めました。振り返ってみれば、自分が旧約聖書を読み始めたきっかけはヘブライ11章だったと言っていいと思います。  ヘブライ11章では、神様の救いの歴史において、信仰によって重要な役割を果たし賞賛された旧約聖書の諸人物が、「信仰の殿堂」のように次々と挙げられています。旧約聖書を読み進めるうちに、彼ら「信仰のヒーローたち」のことを通じて、神の救いの歴史や神への信仰のあり方を少しずつ学んでいくことができました。  ヘブライ11章の著者は「信仰によって」という冒頭フレーズを用い、各人物を取り上げられています。そして、 教皇ベネディクト十六世自発教令 『ポルタ・フィデイ(信仰の門)―「信仰年」開催の告示(2011年10月11日)』 の中(13番)でも、同じ冒頭フレーズが使用され、聖母マリアを始め、新約聖書以来の信仰の証人たちが取り上げられています。  その2つの書簡に挙げられている信仰の模範を展開してみると次のようになります。  [ヘブライ11章]  聖書の中で最初の義人(殉教者)の アベル 、  神とともに歩んだ エノク 、義の賜物を受けた ノア 、  神の選ばれた民の父と母になった アブラハム と サラ 、  息子たちのヤコブとエサウの将来を祝福した イサク 、  イスラエルの十二部族の父となった ヤコブ 、  兄弟たちをゆるしイスラエルの民を飢えから救った、夢解きの義人 ヨセフ 、  イスラエルの民に神の律法を与えた モーセ 、  リーダーであり忠実なしもべの ヨシュア 、  危険を顧みずイスラエルの斥候を守った ラハブ 、  わずか三百名の戦士で数万人の軍勢を破った ギデオン 、  従順な戦士の バラク 、怪力を持つ士師の

ヴェニ・サンクテ・スピリトゥス

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"Veni Sancte Spiritus"、 「聖霊来てください」。聖霊降臨の主日に必ず歌われる典礼聖歌「聖霊の続唱」です。 昔からこの聖歌が大好きです。生まれ育ちの母国では、グレゴリオ聖歌の旋律の原曲の英語版("Come Holy Spirit")で歌い、また教会によって原曲のラテン語版("Veni Sancte Spiritus")でも歌っていました。来日して日本語版の「聖霊来てください」を初めて聞いた時、日本語が下手だったのでとても歌いにくいと思っていましたが、徐々に歌えるようになり、なんとなく原曲のグレゴリオ聖歌の旋律も感じることができ、やっぱり素晴らしいと思っています。 原曲も日本語版もどちらも旋律が良いだけでなく、聖霊の働きが感じられ、聖霊を求める祈りの歌詞も素晴らしいと思います。日本語版はラテン語の歌詞の内容とほぼ同じで、歌詞の前半に「光」がいくつも出てきて、聖霊のすごく明るい輝きと力を感じさせられます。(聖歌と歌詞は本記事の終わりにあります。) 「証の力を注ぐ方」と歌詞にも書かれていますが、主イエスのみ名によって、御父がお遣わしになった聖霊が降り、使徒たちに証の力を注き、キリストの教会が誕生しました。あの日、聖霊を受けたペトロが使徒たちの代表として初めての説教と力強い証をなし、三千人にも及ぶ人々がペトロの言葉を受け入れ、洗礼を受けました(使徒言行録2・41)。 一日に三千人の受洗者!もちろんこれはペトロの人間的な力によるものではなく、聖霊による奇跡であり、神様ご自身の御業であったことです。 使徒言行録の前半位(第1章~12章)にはペトロの言行がほぼ毎章に登場し、それを読むたびに、聖霊を受けたペトロ自身にたいへん大きな変化が起こったことにいつも深い感銘を受けています。 一介の漁師に過ぎなかったペトロ、学問もなく、おっちょこちょいで、あとさき考えずに行動的で、キリストに叱られてばかりいたペトロ、主イエスとの関係を否定しまい、後に激しく泣き痛烈に後悔していたペトロ、そのような貧しい者にも、主の僕として神様の救いの業に仕えるという光栄を与えられた神様の恵みあってのことです。 わたしたちも、神様の救いの御業に仕え、用いられることを、大きな

復活の朝、墓へと走る使徒ペトロとヨハネ

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  主のご復活おめでとうございます。   とても気に入っている宗教画のレプリカを持っています。ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチ、レンブラントのような巨匠の作品ではなく、あまり知られていない画家の作品です。ちょうど主の復活の主日(4月21日)のミサで読まれた福音書(ヨハネ20・3-4)の瞬間をとらえた素晴らしい作品です。  「復活の朝、墓へと走る使徒ペテロとヨハネ」という作品名で、スイス出身の画家ウジェーヌ・ビュルナン(1850-1921)が1898年に描かれたものです。  朝焼けの空と雲の下に広がる平穏な風景を背景に、ペトロとヨハネはキリストのお墓に駆けつけています。彼らはつい先ほど、キリストはもうお墓にいないのだ、キリストはよみがえったのだと、マグダラのマリアから知らされました(ヨハネ20・1-2、ルカ24・5b-10)。彼女の言葉が耳の中で鳴り響きいる二人は、今にも走り出しそうな勢いで身を乗り出しています。  主イエスが十字架の上で亡くなられた時共にいた唯一の弟子のヨハネは、胸に両手を握りしめながら、主が再び生きておられるかもしれないことを本当に信じていいのかと、ドキドキしながら気絶しそうに、希望と気がかりを交えた気持ちでいっぱいの様子です。  そして、ついこの間三度も主イエスのことを知らないと言い切って、後に激しく泣き(ルカ22・61-62)、自分の弱さを痛く、深く感じながら痛烈に後悔しているペトロは、怯えながら希望に満ち、恥を感じながら必死の様子です。彼はマグダラのマリアの報告が信じられるかわからないが、信じたいと考えている様子です。また、彼は胸に手を当て、完全に失った勇気は今、心にあるかのように感じたい様子です。  ビュルナンはなんとその1つの顔に様々な複雑な感情を巧みにとらえました。  描かれたその瞬間の二人の使徒の様子をしばらく静かに観ているうちに、それこそ四旬節の意義ではないかと思うようになりました。私たちが、砕けた心の重荷を背負って、主イエスを否定したことを恥じ、そして主が生きておられ、私たちを愛し、私たちを赦してくださることを切に願っているのではないでしょか。  復活の朝というテーマなのですが、ビュルナンは婦人たち、墓、亜麻布を描かず、ただこれから起こる主イエスのお約束だけをペトロとヨハネを通じて