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人生の壁は“句読点”、“終止符”ではない

  古代エリコの壁は…神の御力で崩れた     考古学的調査によると、世界最古の町と評される古代エリコ(紀元前8000年以降)の城壁は二つの壁から構成されていました―高さ約13メートル、厚さ約2メートルの外壁と、その内側の斜面の上に築かれた高さ約8メートル、厚さ約4メートルの内壁と。加えて、幅約8メートル、深さ約3メートルの空堀が外壁を囲んでいた、そのため当時の人たちは空堀の先の地上から城壁を見上げると、2つの壁が高さ20メートルほどの1つの壁のようにも見えたのだろう、と言われています。  それが、ヨシュアと彼が率いるイスラエルの民が直面した、「高くそびえ立ち、難攻不落」のように見える壁でした。おそらくその時は、「こんな要塞を突破できるわけがない」と、意気消沈していた人たちも、多かれ少なかれその中にいたのではないでしょうか。しかし、ご存知のように結果として、やはりヨシュアたちの人間的な力ではなく、神様の御力だけで城壁が崩れ落ちました(ヨシュア記6章参照)。 人生の壁    私事ですが、ここしばらく壁に直面していて、「なぜこんな壁が現れたのか?乗り越えられるのか」と疑問に思うことがあります。壁にぶち当たることは人生の一部だ、と言われています。とは言え、できることなら誰もが壁を避けたい、と思っているでしょう。  身体や心の状態に影響を及ぼすような種々の壁が、人生の旅の所々で現れてきます。そして壁が大きければ大きいほど、その向こう側が見えなくなったり、壁を突破して向こう側に行き着くことが不可能のように見えたりします。  また、人生の壁もエリコの城壁のように、単独で立ちはだかることはめったにありません。多くの場合は、苦しみや不安、落胆、恐れ、などといった深い堀を伴っています。同時に、希望の感覚を奪おうとするような種々の外的影響力が、私たちを襲ってくるときもあります。  「もし神様が私たちをとても愛しておられるのなら、なぜこのような壁が私の周りに現れるのを、許されるのだろう」と、疑問に思うことはありませんか。正直なところ、僕はそれに対する明確な答えを持っていません。  ただ、このような状況に直面するとき、どんなに辛くても、またどんなに無力感に襲われても、それでもなお、決して希望を捨てず、絶えず主の御力と助けを求め続けることが最も大切なことにほかならないのだと、僕はそう教わって

聖母マリアの初聖体

 御聖体を拝領する前に、私たちは沈黙の内に各々の心の中で祈り、相応しい心の準備をします。自分の場合、最後に「アヴェ・マリアの祈り」を祈り、それから御聖体の秘跡に与ります。これは別に子供の頃からの習慣でもなければ、誰かにそうしなさいと言われたからでもありません。  いつからそうしているかは正確に覚えていませんが、回勅『 教会にいのちを与える聖体 』(2003/04/17 “ ECCLESIA DE EUCHARISTIA ” )の中で、聖母マリアにとって、その初聖体にはどのような意義があったのかを思いめぐらした教皇聖ヨハネ・パウロ二世の考察を読んでから深い感銘を受け、御聖体拝領の直前に「アヴェ・マリアの祈り」を祈るようになりました。なぜなら、聖母マリアはいつも私たちの注意を主イエス・キリストに向けさせておられるからです(2019/09/25 「 『アヴェ・マリアの祈り』、聖書のルーツをもつキリスト中心のお祈り 」参照)。   初めてミサに与る聖母マリア    聖母マリアの初聖体がいつ行われたかは誰にもわかりませんが、その瞬間のマリア様を想像してみましょう。エルサレムかガリラヤのどこかで、使徒の一人がエウカリスチア(感謝の祭儀・ミサ)のいけにえを捧げています。主イエスの最初の弟子たちの多くが集い、マリア様もそこにおられ、初めてミサに与ります。  マリア様は「最後の晩餐」におられませんでした。主イエスがその夜、使徒たちに命じられたこと、すなわち、パンとぶどう酒を取り、ご自分の御体と御血を捧げ、そして、「私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ福音書22章19)と言われたことを、マリア様が使徒たちから聞かされたのでしょう。今、マリア様は初めてこの御聖体の聖なる秘儀に与ります。  使徒たちがパンとぶどう酒を取り、「これは私の体…これは私の血…」と言っているのを見ながら聞いているマリア様を想像してみてください。それから、御聖体を拝領しているマリア様の様子を想像してみてください―自ら産み育てた我が子の御体と御血が、再び自分の中に宿っておられるのです! 教皇聖ヨハネ・パウロ二世の2つの主な洞察  聖ヨハネ・パウロ二世はまず、自らの胎に主イエスを身ごもる聖母マリアと、御聖体を拝領する人との間にある深遠な繋がりについて思い巡らされます。ある意味で、御聖体を拝領するたびに、私たちはマリ

私たちに与えられた時間をどうするか

 「こんなことが起こらなければよかったのに…」    今年3月に海外の大学に入学した姪っ子と久しぶりにオンラインチャットしました。コロナ禍のせいでまだロックダウン実施中の現地国へ行けず、自宅で完全にオンライン形式の授業を受け、無事に第一学期を終えましたが、9月から始まる第二学期も当面の間まだ現地に行くことができないそうです。  いまだに実際の海外留学生活の体験ができない彼女は、軽く愚痴をこぼした後、「私の時代にこんなことが起こらなければよかったのに」と言いました。それを聞いた私は、ふとその言葉に聞き覚えがあると思ったのですが、その時は思い出せなかったので、そのことには触れず、彼女の気持ちを理解しながら励ましました。  数日後、その言葉をどこで聞いたことがあるかは急に思い出しました―英国の文献学者、作家、詩人の故J・R・R・トールキンの傑作『指輪物語』三部作(原題:ロードオブザリング/The Lord of the Rings)の第一部の『旅の仲間』(原題:The Fellowship of the Ring)でした。  「中つ国」(ミドル・アース)を舞台に、主人公のフロドを含む9人の旅の仲間が、邪悪な冥王サウロンを完全に滅ぼすため、全てを統べる「一つの指輪」を破壊する物語です。若き主人公のフロドが、邪悪な力の指輪を破壊できる唯一の場所、すなわち邪悪そのものの中心に運ぶことができる唯一の純粋無垢な人です。  しかし、中つ国全体の運命がフロドにかかっていることを考えると、フロドにとってそれは恐ろしい重荷となります。邪悪なものは常にその指輪を求め、彼に付きまとい、彼とその運命的な任務に加わった仲間たちを滅ぼそうとします。  物語の中で次のような会話をする場面があります。指輪の暗い歴史と邪悪な冥王サウロンの帰還を聞いた後、フロドは 「指輪が僕の手に渡らなければよかったのに。僕の時代にそんなことが起こらなければよかった」 と言います。  冒頭で、姪っ子も、無意識に軽く愚痴っていた同じような言葉ですが、私たちも様々な状況において何度同じような思いを抱いたことがあるのでしょう。それが悲劇であれ、心痛であれ、悩める時期であれ。「なぜ私なのだ?神様よ、なぜ私がこのような苦しみや悲しみを背負わなければならないのですか」。  多くの人々の命、愛する人々の命、そして多くの人々の生計、生活の

使徒パウロとオリンピック

 子供の頃から、4年に一度開催される夏季オリンピックを見るのが大好きです。個人的に好きなスポーツの個別の世界大会を見るのも好きですが、世界中のトップアスリートたちが集まって一斉に競い合う数多くの競技をたくさん見ることができるのは、オリンピックだけです。   懸命に頑張る選手の姿にパウロを重ね合わせる   アスリートたちが皆全力を尽くし、世界トップレベルの身体と運動能力や精神的な強さを最大限に発揮し、最高のパフォーマンスや技術を披露していく姿には、いつも心を動かされ、感動を受けています。  東京2020オリンピックも2年前から、大いに楽しみにしていましたが、とても残念なことに世間の賛否両論の中で、コロナ禍の暗黒の闇に覆われた無観客の大会となってしまいました。アスリートたちにとっても、このような未曾有の状況において、これほど精神的な強さが大いに試される大会はないのではなかろうか、と思います。  しかし、このような状況でも開催された以上、彼らはひたすら目標に集中して頑張って行かなければなりません。努力に満ちた長い歳月を経てここまで誠実に辿り着いた世界中のアスリートたちは、どのような逆境に直面したか、どれほどの艱難辛苦に耐え、どれほど精神的に試され、乗り越えてきたかは、本人たち自分自身のみ知ることです。  そのようなわけで、オリンピックで懸命に頑張っている多くのアスリートたちの姿を見ると、いつも使徒パウロの教えを思い出され、改めて反省し、学ばせてもらっています。 パウロは陸上競技を例えに使っている  使徒パウロは、いくつかの書簡の中で、何度も陸上競技の世界の比喩を使っています。3つの書簡では、全力で走るイメージを用いて、霊的な成長と奉仕の活発で合法的な追求を促しています。また、自分の成長と奉仕について、4回も、そのような走りに例えて語っています。  紀元前776まで遡るオリンピックは、運動能力、練習や鍛錬、および競争力の頂点を表しています。パウロはもちろん古代オリンピックのことを知っていましたし、オリンピックの前後の2年に一度のコリントス地峡で開催される「イストミア大祭(競技会)」(古代ギリシア四大競技会の一つ)もよく知っているはずなのです。  そのため、霊的に豊かに恵まれてはいますが未熟なコリントの信者たちに、パウロはこう書いています。「あなたがたは知らないのですか。競技

「聖ペトロの否認」を思い巡らす

 新約聖書(「四福音書」「使徒言行録」「ペトロの手紙」)を通して、使徒聖ペトロについてのことや彼の言行、教えを読んだり、思いを巡らせたりしていくうちに、多くのことを教わりながら、聖ペトロに親近感を覚えるようになり、色々な意味で共感できるところもあるように感じています。 常に素朴で正直な心で、主に従う   聖ペトロは極々平凡な人間であり、初めて主イエスに出会った時から終始、主の御前では素直で、率直な気持ちや思いを隠すことなく―「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」(ルカ福音書5章8節)―ありのままの自分の弱みをもって、素朴で正直な心をもって主に従っています。  僕としては、福音書に記されているペトロの一言一句を「聴き」、それぞれの場面を「観る」ようにすることにつれて、ペトロにとって主イエスがどれほど大切な存在であるか、ペトロはどれほど主を慕っているか、どれほど主から離れずにずっと一緒にいたいと思っているか、どれほど主イエス・キリストを心から愛しているかが伝わってきます。  たとえ主イエスの御教えをまだ十分に理解していなくても、たとえ自分の信仰がまだ十分でなくても、たとえ周りの様々な事情や誘惑、自身の弱さなどによってつまずいたり転んだりしていても、あきらめず主の助けと力を求め続け、心から悔い改め、迷うことなく主を信じ、主に従い続けることを、ペトロが身をもって範を示し、教えてくれているような気がします―「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ福音書16章16節)「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉をもっておられるのは、あなたです。」(ヨハネ福音書6・68~69節)。 「否認」なのか「裏切り」なのか  ある人たちにとって、ペトロが「主イエスを知らない」と三度言ったことを、「ペトロの裏切り」と見なしているようです。また、主を(実際に)裏切ったユダのほか、「ペトロも主イエスを裏切ったのだ」とし、この「二人の裏切り行為」が比較されることも少なくないようです。  どうしてペトロにそのようなレッテルを貼っているのか、僕には理解し難く、悲しく思っています。  「人を裏切る」ことの意味や定義を議論するつもりはありませんが、そのような行為には計画的な利己動機や意図が込められているのではないでしょうか。私たちは、当惑したり混乱したりする瞬間に、誰かや何かを

「クロノス」の世界で「カイロス」を生きる

  久しぶりに聞いたクロウチのバラード   1973 年にアメリカビルボード( Billboard ~米国最も権威のある音楽チャート)1位に輝いたバラードがありました。その曲は次の歌詞で始まります。 If I could save time in a bottle   もし僕が瓶の中に時間を貯めておけるなら The first thing that I ’ d like to do  僕は真っ先にやりたいことは Is to save everyday till eternity passes away  毎日を永遠が過ぎ去るまで貯めておくさ Just to spend them with you.  ただそれらを君と一緒に過ごすために。(拙訳) 美しいアコースティック・ギターのアルペジオをバックにそう歌っていたのは、アメリカのフォーク系シンガーソングライターのジム・クロウチ( Jim Croce )でした。 この「 Time In A Bottle (タイム・イン・ア・ボトル)」という曲(ネットで検索すればすぐに視聴できる)は、もともとジム・クロウチが最愛の妻の妊娠を告げられた時に書き上げたものでしたが、 3 年後に不慮の飛行機事故で彼が他界後、この曲が全米 No.1 ヒット・シングルとなったと言われています。 この曲を初めて聞いたのは 1981 年、ギターを始めたばかりの中学 2 年生の頃でしたが、年を重ねるごとにすっかり忘れていたのですが、先週、偶然にもネットで久しぶりに耳にしました。 ジム・クラウチの歌詞を振り返ってみると、妻への深い愛情が明白に表現されていることは言うまでもありませんが、同時に、「カイロス」という時間の概念も微妙に表されているように思います。 古代ギリシア語の「時」を表す二つの言葉 古代ギリシア語で「時」を表す言葉は「クロノス」( Chronos )と「カイロス」( Kairos )の2つ。前者は時計やカレンダーで計れる「量的な時間」( 1 時間は 60 分、 1 日は 24 時間、 1 ヵ月は 30 日間など)です。後者は計ることのできない、かけがえのない「質的な時」を指すほかに、「機が熟す時」「適切な時」「完璧なタイミング」といった意味合いがあります。また、カイロスには精神的(霊的)な感覚が伴います。

「万軍の神なる主の名によりて来たる者」を思い巡らす

  3月28日の「受難の主日(枝の主日)」のミサで、第二朗読が読まれている間――「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず/かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました......」(フィリピの信徒への手紙2章6節~11節参照)――なぜか、主イエスがゲツセマネの園で捕らえられる直前に言われた次の言葉が、一瞬頭をよぎりました。  「私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」(マタイ福音書26章53節)。  かつて、この『軍団』というのはどういった区分なのかを簡単に調べたことがありますが、当時の帝政ローマ時代では、一つの軍団(ラテン語では「レギオー、legio」)は約6千人の軍団兵(「レギオーナーリウス、legionarius」)編成のものだったと言われます。単純に計算しますと、「12軍団以上の天使」は7万2千人以上の天使ということになるでしょう。  このように、天使の軍勢が当時の世界最強のローマ軍のイメージに重ねられ、また「12」の数字は、聖書でよく使われる重要な事柄を表す「完成数」(「12部族」「12使徒」など)というわけで、「12軍団以上の天使」とは、「ローマ軍さえもかなわないほどの、数多く力強い天使」ということを表しているでしょう。  では、さらに考えてみれば、これほどの数の天使が発揮できる総合力はどのようなものになるのでしょうか。イザヤ書には、神を罵り、神の民の滅びを図ろうとしたアッシリア王から神の民を守るため、一人の天使が一晩でアッシリアの陣営で18万5千人を全滅させた、と記されています(37章36節参照)。これも単純計算すれば、一つの軍団の天使が11億1千万人を、十二軍団以上の天使が133億2千万人(今日の世界人口の約2倍)以上を全滅させることができるということになるでしょう。  すなわち、ゲツセマネの園で、主イエスはその気になれば、それほどの力強く、大いなる守りを御父から得ることができるにもかかわらず、私たちの救いのために、御受難と十字架の道をお受け入れになり、御父から与えられた使命に完全に果たされようとされ、そのような助けをお求めにならなかったのです。  確かに、主イエスを御自身の意志に反して連れ去るほど、強い人間の力が地球上のどこにもな

神様の無限の素晴らしさと美しき御業を垣間見る③

 今週の月曜日(2月8日)から来週の火曜日(2月16日)—灰の水曜日の前日まで、教会の毎日のミサ(第6主日を含む)の第1朗読で、創世記の最初の数章が読まれています。創世記は、神様が天地を創造され、神様と人類との関係の始まりの物語を語っています。この関係は、神様が世界を形造られたときに始まりました。 神様が創造され、ご自分の創造を御覧になり、全ては極めて良しとされました(創世記1章31節)。  ちょうど1年前、2回の記事にわたって、私たち人間の想像力や理解力をはるかに超えた、神様の壮大で美しい御業を少し垣間見ることを共有しました( 「神様の無限の素晴らしさと美しき御業を垣間見る① 、 ②」 )。ちょっとした「天ノ篇」と「地ノ篇」のような形式だったと思います。今回はその「人ノ篇」として、私たち人間を創造された神様の驚異的な御業をもう少し垣間見ながら、このテーマを完結したいと思います。  3,000年前、ダビデは次のように唱えました。  「人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。  人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。  あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ  栄光と誉れの冠を授け(た)」(詩編8編5節~6節)。  今日、神様は現代科学での研究と発見を通じて、徐々に、ほんの少しずつ、人間の驚くほど不思議な素晴らしさをお示しくださっておられます。  人間の体は約37兆個の細胞でできていると言われています。それは78億人ある世界人口(2020年)の約5倍に相当する数です。また、その1個の細胞は約100兆個の原子の結合によって形成されています。  私たちの脳に存在する約1000億個の神経細胞(ニューロン)を一直線に繋げた場合、100万キロメートルにもなると言われています。これは1周約4万キロメートルの地球を25周もできる距離です。これらの神経細胞は、私たちの一般的な日常生活の外界環境から、毎秒100 億ビットにも達すると言われている感覚情報を処理しています。これは約180枚の1600万画素数の高画質デジタル写真相当の情報量です。  私たちの網膜には、片目だけで、600万個の錐体細胞(明るい場所で色を識別する)と1億2千万個の桿体細胞(暗闇で僅かな光でも感知できる)が存在し、それらは120万本の神経線維を通して脳に情報を送ることによって、私たちが15センチ先の文庫本の細

神様が好きな香りは・・・

 私はほとんど毎朝の朝食時にコーヒーを飲みます。早朝に淹れる挽きたてコーヒーの濃厚で深い香りが特に大好きです。この香りは、妻や両親、兄弟や親しい友人たちとコーヒーをゆっくり飲みながら、共に過ごしていたひと時をしばしば思い出させてくれます。昔、小さなコーヒー焙煎屋の近くに住んでいた頃の子供時代のことさえ思い浮かばせてくれます。  ただ単に香りだけでなく、それに伴う心地よい充足感、ノスタルジア(郷愁)や思い出が好きです。この特定の香りが私をどのようにかき立てるのかは説明できないのですが、そこにはきっと奥が深いだろうと思います。  私たちの信心深さが香りのように神様に向かって昇っていくとき、おそらく、神様も同じように感じられるのかもしれないと思います。神様はより深遠な喜びで、その香りをお受入れくださるのではないでしょうか。  神様はイスラエルの祭司たちに、絶えずかぐわしい香を焚き続けるように命じられましたが(出エジプト記30章7節~8節参照)、神様を喜ばせたのは、単なる香りそのものではなく、その香りが表す神様の民の絶え間ない祈りのことだったのです。祈りは神様にとって、「金の鉢」にお集めくださるほど、とても心地よく貴重なものであると、ヨハネの黙示録が教えてくれます。  「巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老はおのおの、竪琴と、香で満たされた金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである」(5章8節)。  「また、もう一人の天使が来て、金の香炉を手に持って祭壇のそばに立ち、たくさんの香を受け取った。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇の上に献げるためである。香の煙は、聖なる者たちの祈りと共に天使の手から神の前に立ち上った」(8章3節~4節)。  ダビデもこのように詠っています―「私の祈りがあなたの前に/香として供えられますように」(詩編141編2節)。確かに、私たちの祈りは、天におられる御父が喜ばれる、金の鉢を満たすかぐわしい香りとなるのです。  私たちが祈りを通じて御父をお求めするとき、御父がそれほど喜ばれる一つの大きな理由があると思います。それは、御父が単純に私たちと一緒におられることがお好きだからということだと思います。  かつて参加した黙想会の中の告解で、神父様が私に「神様はあなたと一緒におられるのが大

新しい年を迎え、一つだけ確かなこと

 主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔の光であなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて あなたに平和を賜るように。 (民数記6章24節~26節)  教会は、主の降誕後8日目にあたる1月1日(「神の母聖マリア」の祭日)、年の最初のミサの聖書朗読を、イスラエルに伝わる民数記6章の祝福の御言葉で始めます。神様が私たちに教えてくださったこの御祝福は、私たち家族の間でお互いに送る誕生日のお祝いメッセージにしばしば引用されています。  また、私たちは英語の「Happy Birthday」「Happy New Year」「Merry Christmas」ではなく、「Blessed Birthday」「Blessed New Year」「Blessed Christmas」と言って、「主に祝福されますように」という願いを込めて祝福を交わしています。いつから、誰から始めたのかはよく覚えていませんが、気が付いたら家族全員が長年そうしています。  よく考えてみれば、誰かのために、主の祝福よりも良い願いがあるでしょうか。私たちは、誰かの一日や一年のために、主の愛と慈しみを感じることと、主の恵みと平安に満たされること以上に、良いことを願うことができるでしょうか。これらが私たち一人ひとりの幸せの根本的な要素ではないかと思います。  私たちはこの世においては、苦しみや痛みや悲しみをもたらす様々な困難に常に直面しています。私たちの幸せが神様に依存していなければ、私たちの心に不幸を生み出すことになるでしょう。たとえ世俗的な欲望で測る「幸せ」をすべて達成したとしても、主イエス・キリストを通して神様との関係を持つことができなかったとすれば、本当の幸せにはなれないでしょう。  『カトリック教会のカテキズム』の第1章(27項)はこのことを思い起こさせてくれます―「神へのあこがれは人間の心に刻まれています。人間は神によって、神に向けて造られているからです。神はたえず人間をご自分に引き寄せておられます。人間はただ神のうちにだけ、求めてやまない真理と幸福を見いだします」。  「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない」と、聖アウグスチヌスが言っています。  長い、厳しい2020年を経て、私たちはここで新しい年の始まりに立