投稿

4月, 2020の投稿を表示しています

神のいつくしみの主日の黙想

復活節第二主日、  神のいつくしみの主日でした。    神聖な静けさに包まれたお御堂で、  ほんのりとした香の香りが漂い、  沈黙の内に祈り、心静かに、  神のいつくしみを黙想しました。    「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、  私を思い出してください。」 (ルカ23・42)   徐々に思い浮かんできた、  命が尽きかけていた犯罪人の祈りでした。   十字架に付けられ、苦しみにいた犯罪人から、  傍らで十字架に付けられ、苦しみにおられ、  共にいてくださった 主イエスへの祈りでした。    犯罪人は自分の罪を悔い改め、 (ルカ23・41)   苦しみからの解放も、死からの救いも求めず、  主イエスがただ自分のことを覚えてくださっていれば それだで十分だ、と祈りました。    その日、彼は神のお恵みによって、  多くの人が見られなかったものを見られたのです。  神の御子、救い主であるメシア、王であるキリストに身を委ね、  御国と御心の行いを求めました。    「よく言っておくが、  あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」 (ルカ23・43)   主イエスが彼に応えられ、  何と素晴らしい約束でしょうか。   「生贄を望まれず、燔祭を喜ばれない神は、  悔い改める心を見捨てられません。」 (詩編51・18-19参照)  私が良い人だから神に救われるのではなく、  罪人である私が、神のいつくしみによって救われるのです。   それに先立ち、同様に十字架に付けられ、  苦しみにいたもう一人の犯罪人も、彼なりに、祈りました。  彼にとって、主イエスは何でもできる奇跡起こしのメシアであり、  とにかく、今の苦しみから解放して救ってくれ、と。 (ルカ23・39参照)    自分自身もそのように祈っているときがあるのでは、 と気が付きました。 神の御国と御心の行いを求めず、  欲しいものや自分が楽になることばかりの祈りでした・・・。    主イエス、あなたを信頼します。    あなたの約束に適うものとなりますよう、  神のお恵みを注いでください。    アーメン。

主の平和!

アレルヤ!主はまことに復活されました!   残念ながら、全典礼暦年の頂点となる聖なる過越の三日間の典礼とミサにあずかることができず、例年のように復活祭の喜びを教会共同体として集まって共に祝うことができないまま、復活節が始まりました。確かに、私たち、否、教会全体が、今、これまで経験したことも想像したこともないような形で、典礼暦の日々と信仰生活を送っています。     それにもかかわらず、主は復活されました!     そして、復活された主キリストは、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ 20 ・ 19 )私たちに語っておられます。     主イエスが十字架上で亡くなられたとき、三年間日々共に歩み、共に生活していた弟子たちの世界はひっくり返りました。彼らの主であり、師であり、友であり、希望であり、彼らの全てである主イエスが、無残にも鞭打たれ、打ちのめされ、十字架に釘付けにされたのを、彼らのうちの一人を除き、ほとんどがどこかで遠くから見ていたのではないでしょうか。服を剥ぎ取られ、棘の冠をつけられて、あざだらけで血まみれの主イエスでした。     恐怖に陥り、不安でいっぱいになった弟子たちは、主イエスのように苦しむことを恐れ、全てのドアに鍵をかけて家の中に引きこもりました。弟子たちは、これからどうすればいいのか分からず、時間が経つごとに誰かに見つかり、引きずり出され、殺されてしまうのではないかと恐れていました。弟子たちは、かつて暗闇と嵐の中で船に乗っていた時に感じていた恐怖よりも、今の方がより強く、根深い恐怖を持っていたに違いありません(マルコ 4 ・ 37-40 参照)。弟子たちの中には、少なくともあの時は主が自分たちと一緒にいて下さったし、主がいなかったとしても、残酷な苦しみを受けて十字架に釘付けにされるよりは、あの時に溺れてしまった方がマシだと思った人もいたのではないでしょうか。   そこに、復活された主イエス・キリストが、そのような絶望の中にいた弟子たちの前に現れ、その最初の言葉は「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ 20 ・ 19 )でした。それによって主イエスは、受難の前にすでに彼らに語られた平和のことを思い出させ、彼らが抱いていた確かで非常に現実的な恐怖の中にあっても、主にあって平和で