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贖いは暗闇の中で…

 公開の御ミサにあずかることができない、また肉体的ご聖体拝領もできない状況は 1 ヵ月続いてきましたが、新型コロナウィルスのパンデミックで感染者数が日に日に増加し、深刻化しつつある中、こんな状況は当面、無期限に続くことになっています。  四旬節中、そしてこれから迎える聖週間と、全典礼暦年の頂点となる聖なる過越の三日間並びに復活祭を祝う御ミサにあずかることができないなんて、世の中のカトリック信者では誰も想像したことがないことです。  このような予期せぬ変化や苦しみによって揺さぶられている世の中、私たちは実に大きな試練に直面し、私たちの信仰が厳しく試されていると思います。  私たちの生活の暮らし方、更には礼拝の仕方を変えているこのパンデミックはいつまで続くのか誰も予測できない中、人間の無力さをあらためて実感させられています。しかし、私たちが抱えているこの無力感は、私たちが神様に依存することはいかに重要であるかを示しています。また、この無力感こそ、聖なる御ミサの欠如は無駄にならない、実りのないことではないという、深い不変の謙虚さを齎してくれると思います。  最後にあずかった御ミサは一ヵ月前の四旬節の始まりである灰の水曜日でした。 灰の式で、司祭を通して、主イエスが「回心して福音を信じなさい」(マルコ 1・15 参照)と仰せになり、私の額に灰を付けられました。  私たちは四旬節を通して、荒れ野での主イエスの神秘に心を合わせ(カトリック教会のカテキズム 540項 参照)、主イエス・キリストに目を向け、神の御言葉に耳を傾け、絶えず祈り、内的と外的の断食、善行を通し、悔い改めて神様に心を傾注するよう、呼びかけられています。  御ミサにあずかることすらできない、不確実性や苦しみに満ちた暗闇に陥った今日のご時世でも、主イエス・キリストは変わらずに私たちを呼ばれています。  暗闇の中で、強風と波が襲い掛かった舟に乗っている弟子たちが溺れ死ぬのを怖がっていた時、主イエスが嵐を鎮められ、  「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」と仰せになりました(マルコ 4 ・ 37-40 参照)。  暗闇の中で、荒れている湖の上に歩かれた主イエスは  「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と仰せになりました(マタイ 14 ・ 2

「四旬節の荒れ野」を思う

 神様の御力と御業によってエジプトから脱出したイスラエルの民は、神様に対する不信と反抗の結果、約束された地に入ることができなくなり、 40 年間荒れ野をさまようこととなりました(民数記 32 ・ 13 、詩編 95 ・ 9-11 参照)。イスラエルの民は、約束の地にいた彼らより強く大きく見える民族に殺されるのを恐れ、神様が彼らをそこに連れて行くことができるとは信じず、諦めたがったのです。  私はかつて、なぜイスラエルの民は自分自身のことをそのような苦境に陥らせたのだろうか、と不思議に思ったことがあります。なぜなら、イスラエルの民は神様に当時世の中で最大文明のエジプトから救い出されたばかりで、すでに神様のさまざまな壮大な御業と彼らの敵に対する偉大な勝利を目の当たりにしていたからです。  しかし年が経つにつれて、私自身も同じようにすることがあることに気が付きました。いつも普段の生活に神様からたくさんのお恵みと助けを賜っているにもかかわらず、自分の勝手な言い訳で神様のお導きを求めず、神様のご意志を背いたりすることがあります。  イスラエルの民が荒れ野で 40 年間さまようことは試練の期間でした。「主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(申命記 8 ・ 2 )とモーセはイスラエルの人々に語りました。イスラエルの民の試練は、彼らが神の戒めに従うかどうかを見る以上のことを伴いました。 荒れ野での彼らの試練は、彼らの心を試すことを目的とされていました。  そして、私たちが自身の荒れ野を経験する時、すなわち、私たちが人生の試練または祈りの苦闘を経験する時、神様が私たちに同じことをされているかもしれないことを思い出すべきです。  神様は私たち自身の心を試されているのかもしれません。私たちの心は他ならなく本当に神様だけに向いているのか、それとも、主が私たちのためになさったことだけに主に献身しているのでしょうか。  これこそイスラエルの民が直面していた試練です。エジプトでは、イスラエルの人々は奴隷から解放され、彼らの敵に対する神様の勝利を目撃した後、神様の賛美を歌い、彼らの救い主である主のうちに喜びました。しかし、荒れ野へ連れ出された時、物事は大変異なったものになりました。