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「視界不良」の中を歩むことは…

 飛行機の飛び方には、「有視界飛行」と「計器飛行」があります。前者は、飛行の基本とされ、主にパイロットが視認できる外界の飛行環境(地面、雲、地平線など)の目視情報に基づいて、パイロットの自己判断で飛行します。後者の場合、パイロットは一切の外界の視覚情報に頼らず、航空機上の計器のみに依存して飛行します。  有視界飛行には、パイロットの目視に頼って飛行するため,十分な視界が確保される気象状態が原則ですが、雲中や暗夜など視界が不良の飛行環境では、計器飛行なしには飛べません。ただ、視界の良し悪しとは別に、パイロットは飛行中に、飛行環境の要素に突如の変化の影響によって、「空間識失調」という平衝感覚を失う状態に陥る場合があります。それに、健康体であるかどうかに関わりなく発生します。  空間識失調に陥ったパイロットは、機体の姿勢(傾き)や進行方向(昇降)の状態を把握することができなくなったり、自身に対して地面が上なのか下なのか、機体が上昇しているのか下降しているのかを分からなくなったりして、「自分の身体の感覚と計器が表示している情報はどちらが正しいのか」という葛藤が生じてしまいます。  そのような状態では、パイロットが冷静に計器飛行で対応することが求められます。そのため、計器飛行はパイロットにとってとても重要な技能の1つであり、一定の訓練および審査を経て取得できる必要な「計器飛行証明」資格です。  「空間識失調時は計器だけを信じなさい」とパイロットたちが教わっています。すべての視覚的基準を失って安全に飛行する唯一の方法は、飛行機の計器から目を離さないことです。なぜなら自分の感覚は自分に嘘をつくからです。経験豊富なパイロットの多くは、「計器飛行証明」資格を取得する上で最も難しいのは「計器を完全に疑うことなく信じるようになることだ」と言います。すべての感覚は、飛行機が旋回していることを示しているのに、計器は旋回していないことを示しているとき、感覚を無視して計器に完全な自信を持てるかどうかが肝心です。  これは、私たちの日々の生活にも当てはまるのではないかと思います。キリスト者としての生活は、私たちが今いるところから、主が私たちに(霊的にも身体的にも)望んでおられる所への、日々の歩みから成り立っていると思います。そして、この過程は目で見るのではなく信仰によって行われます。聖パウロの教え

弱い者の中におられる、王であるキリスト

  「あなたは王なのか」と、尋問したポンティオ・ピラトは 「この人は一体、何者なのか」と、不思議に思っていました・・・。 「この人」は、貧しく、知名度のない、小さな村で育ち、 彼の両親は、有名人でも、権力者でも、裕福でもなく、 最初に彼を訪れた人たちは、最も貧しい羊飼いでした。 「この人」は、人々を率いて戦場へと導くことはなく、 「自分の十字架を負って、私に従いなさい」と、促されました。 「この人」は、権力者やお金持ちと食事をしたり、付き合ったりしませんでしたが、 軽蔑され、無視され、見捨てられた人たちと一緒に食事をし、 価値がなく、罪人だと見なされている人々に、御手を差し伸べられました。 「この人」は、多くの召使いに仕えられた豪邸を住まいとしませんでしたが、 貧しい人、病人、傷ついた人、そして愛と癒しと慈しみを必要としている すべての人々と一緒に時間を過ごされました。 「この人」は、世間が重視するような富も財産も所有しませんでしたが、 ご自分の最も偉大な所有物―全能の神の無限の愛を 私たちと分かち合ってくだいました。 この御方が、「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、 傷ついたものを包み、弱ったものを強く」 (エゼキエル34・16) してくださる私たちの牧者であり、 私たちの王である主イエス・キリストなのです。 王である主イエス・キリストは、 「飢えている人、渇いている人、貧しい人や病人、 見捨てられた人や牢にいる人」 (マタイ25・36-40) の中で見いだされ、 最も弱い立場の人々の中におられます。 私たちが互いのために何をするにしても、 私たちは主イエスのために行うのですから、 私たちが心を開き、目を開くなら、出会うすべての人の中で 王であるキリストにお会いすることができるでしょう。 主イエスは王であり、 主の兄弟姉妹としての私たちは、主の王室に属しています。 そのため、主の王室の一員として、私たちは互いに相応しい尊厳と敬意をもって、 接することができますように。 「キリスト者よ、 自分の尊厳と気高さを自覚しなさい。 あなたが分かち合うのは、神ご自身の命なのです」と、 初期の教皇の一人が言われましたように。 [関連記事] 王であるキリストをほめたたえよ(2019.11.19)

「聖性」の始まりは「神の創造物である自分」を愛すること

 初めて聖人に関する本を読んだのは、堅信を授かった12歳の頃でした。父からお祝いにプレゼントしてくれた様々な聖人についての短い紹介集でしたが、読み始めると、とても興味をひかれ、それ以来、様々な聖人に関する本をより深く読むようになりました。  様々な聖人のことについて、また聖人から学ぶようになるにつれ、彼らの個性や経歴はそれぞれ大きく異なるものの、神様への忠実な愛、そして隣人を愛する姿勢がとても似ていることがわかりました。教皇フランシスコが次のように美しく表現されています。  「聖人たちは、光が異なる色合いで入ることができる教会の(ステンドグラスの)窓に例えることができます。彼らは、神の光を心の中に迎え入れ、それぞれの「色相」に従って、世に伝えています。しかし、彼らは皆透明で、神様の穏やかな光が通り抜けられるように、罪の汚れと闇を取り除くために、力を尽くして、努力していました」(2017年11月1日、「お告げの祈り(日曜・祭日正午の祈り)」での講和)。  以前にこのコラムで教会の典礼暦について、分かち合わせていただいたことがありますが(「日日好日」―典礼暦年を生きる)、聖人たちは、また、私が典礼暦が大好きな理由の1つです。神聖な点呼のように―例えば、ある日は幼きイエスの聖テレジア、次にアシジの聖フランシスコ、その次に、アヴィラの聖テレジア、聖イグナチオ(アンチオケ)、聖ヨハネ・パオロ二世教皇など―異なる個性や経歴を持った聖なる大先輩たちは、次々と行進して通り過ぎていき、私たちはついに「諸聖人の祭日」(11月1日)にたどり着きます。  この日には教会の歴史上の列聖された聖人たちだけでなく、天国にいる数多くの無名の聖人や、日常生活の中で神様の光を輝かせている普通の善良な人々も、含まれています。このように、聖徒の栄光ある交わりは、私たちと共に祈り、私たちのために祈ってくれる膨大な数の信仰の同伴者を与えてくれています。  「カトリック教会のカテキズム」は、「『どのような身分と地位にあっても、すべてのキリスト信者がキリスト教の生活の完成と完全な愛に至るよう召されています』。すべての人が聖性へと召されています」(2013項)と教えてくれています。つまり、私たち全員が例外なく、聖人になるように招かれているのですが、教皇フランシスコが次のように述べられています。  「私たちはしばしば

ロザリオを祈るのが好きな理由

 ロザリオは、私が子供の頃から馴染んできたお祈りですが、大人になり、教皇聖ヨハネ・パウロ二世の書簡「おとめマリアのロザリオ」(2002年10月16日)を読んでからは、ロザリオの祈りの意義、とりわけ、その中心となる「アヴェ・マリアの祈り」についての理解が深まり、その祈り方も変わりました。  昨年、前述のことについて分かち合いさせていただいたので、よろしければお読みいただければと思います( 「アヴェ・マリアの祈り」、聖書のルーツをもつキリスト中心のお祈り )。  ロザリオの祈りは私にとって、大海原のようなものです。我ら主との祈りをより深めたい人も、祈り方を学び始めた人も、または、生活の中で何かが起こっているとき、主の助けを求める人も、ロザリオは誰にでも有益で素晴らしい祈りです。深海探検家と浜辺で砂のお城を作る子供は同じ海でも、レベルが違っていても十分に堪能することができます。これはロザリオにも当てはまるのではないかと思います。  なぜなら、ロザリオを構成する主な祈り(主の祈り、アヴェ・マリア、栄唱)と、それに伴う福音書の主イエスの主な出来事の黙想は、すべて主キリストを中心とし、聖書に基づいた祈りだからです。そのため、ロザリオという海の浅瀬でも深海でも、私たちは主イエスに出会うことができるのです。  そして、私たちの御母、聖母マリアも共におられ、私たちを率いて共に主への祈りを捧げてくださるのです。聖母マリアが言われます。 「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1・46~47) 。 「この方 (主イエス) が言いつけるとおりにしてください」(ヨハネ2・5)。 私たちがロザリオの祈りを通して、御母と共に、主イエスに出会い、主イエスに祈りを捧げることが、御母マリアは誰よりも喜ばれるのではないでしょうか。  ロザリオの祈りは、私たちを主イエスと御母の御前に置かせてくれることで、私たちにはいつもプラスな体験をもたらしてくれます。主イエスと聖母マリアと一緒に過ごす時間が多ければ多いほど、私たちの日常生活に、主と聖母の愛がより反映されることができると思います。  ロザリオを祈り、福音の玄義を黙想することもまた、私たちにプラスな影響を与えてくれます。私たちがその黙想を通して福音に浸すことで、より一層主イエスに近づくことができ、主を仰ぎ、御言葉を聞くことができ、

「人生の本当の悲劇」は何?

  学生であろうと社会人であろうと、私たちは日常生活の様々な場面で、本や文書の中で、蛍光ペンを使って注意したい、覚えておきたい大事なことや情報をハイライトし、強調していると思います。それは私たち自身のためだけでなく、目的によっては他人のためでもあります。  ここ数日、仕事で分量の多い新旧の書類を精査していたとき、久しぶりに連日、立て続けに蛍光ペンを使っていたからかもしれませんが、ちょっと考えさせられることがありました。  蛍光ペンで文書をハイライトする活用法は、各々の目的や好みによって十人十色なので、それを論じるつもりはありませんが、活用法や目的が何であれ、役に立つようなハイライトには概ね3つの基本的なステップが必要だと思います。まず、内容をよく読むこと。次に、ここで大事なことは何かをよく考え、問うこと。そして最後に、これが本当に大事なことであり、強調すべきことである、と判断し決めることです。  これは簡単そうで、当たり前のように思えますが、この3つのステップをどのように進めていけばいいのでしょうか。その質によって、最終的には、「何が本当に重要なのか自分でも分からないほど多くのハイライトを表示する」、あるいは「自分の目的に合った適切なハイライトが表示され、自分にとって本当に重要なものは、それを見た誰にでも、すぐに分かるようにする」、のどちらかでしょう。  考えてみると、私たちが重要だと思っていることは、それに対しての私たちの価値観も表していると思います。それは、各々個人的な知見や経験など、様々な要素の影響を受けながらその判断の基準が形成されているのです。そのため、皆が全く同じ文書を読んでいても、必ずしも、皆が同じことをハイライトして強調するわけではありません。  しかし、よく考えずに、あまりにも多くのことを重要だ、と決めつけ、無差別のようにハイライトしてしまうと、自分にとって本当に重要なものや価値観を見失うことになってしまうのではないかと思います。  同じことが、私たちキリスト者にも言えると思います。聖パウロがこう教えてくれます。  「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです」(IIコリント5・17)、「心の霊において新たにされ、真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって造られた新しい人を着なさい」(

「Nunc Coepi(ヌンク・チェピ)―今、新たに始める」

 「ニューノーマル(新たな状態、新しい日常、新しい生活様式)」―昨今のコロナ禍関連の新語・流行語の1つです。この「ニューノーマル」は、不確実性、不安定さ、警戒、そして孤立さえある状態のようであり、また、不安の高まりが伴われる現実でもあるようです。   「ニューノーマル」に関する記事を読んでいくうちに、新型コロナの世界的大感染によって私たちが直面している「ニューノーマル」と、私たちの個人生活の中で遭遇する「新しい現実」との類似点が見え始めました。   克服しなければならない病気の発見、愛する人が亡くなった後の生活、長い間大切にしてきたものの喪失、犯してしまった過ちや失敗、いつも信頼してきた人からの裏切りなど、私たちの個人生活の新しい現実は、私たちが慣れ親しんできたものとは異なる限り、様々な形で現れてきます。   新しい現実が何であれ、私たちはまったく知らない新しい領域に移動させられてしまいます。そして、私たちがそれらの手ごわい現実に引きずり込まれていくうちに、しばしば最も重要なこと、すなわち、祈りと主イエス・キリストへの依存を忘れてしまいがちになるのでは、と思います。  「私の声よ、神に届け。/私は叫ぶ。/私の声よ、神に届け。/神は私に耳を傾けてくださる。苦難の日にわが主を尋ね求め/夜もたゆまず手を差し伸べた。」と詩編77編1-2節にあるように、私たちが恐れたり、困難に陥ったりするとき、神様はそこにおられます。どんな状況であろうと、またどんな現実であろうと、神様は私たちと共におられ、私たちが神様の導きを求めることを望んでおられます。   ラテン語で「Nunc Coepi(ヌンク・チェピ)」というフレーズがあります。「今、新たに始める」を意味します。このフレーズは、主イエス・キリストの内にある新たな人生への呼びかけを完全に体現していると思います。   Nunc Coepi(今、新たに始める)。私たちの祈りの中、習慣の中、人間関係の中、仕事の中、人生のあらゆる変遷の中、そして、どんな状況に直面しても、どんな不安と悩みを抱えても、どんな過去や失敗があっても、私たちはいつでも主キリストの内に新たに始めることができ、いつでも主の導きを求め、主の聖なる御前で生きることを意識することができます。   Nunc Coepiというフレーズの背後にある信仰は、私たち一人一人のための神様の

主よ、我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない。

  8月28日、教会は聖アウグスチヌスの記念日を祝います。聖アウグスチヌス司教は、教会博士であり、4世紀乃至5世紀の最も重要な神学者・哲学者の一人です。聖アウグスチヌスを研究したことがある、あるいは少なくとも彼が残した数多くの名言のいくつかを聞いたことがある人も多いのではないかと思います。  その中で、特によく知られているのは、「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない」という名言ではないでしょうか。これは聖アウグスチヌスの最も有名な著作の一つである『告白』の第1巻の冒頭に出てきます。この不朽な名著では、聖アウグスチヌスが自身のキリストに向かう長い道のりとキリスト教への回心について論じています。  「我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない。」  誰もが落ち着きのない心を持っているからこそ、これは、誰にでも語りかけるようなシンプルでかつ直接的な形で私たちを主イエスキリストに導いてくれる、心強い言葉だと思います。  この落ち着きのない心は、私たちがそれを認識しているかどうかにかかわらず、神様を知りたい、そして神様とより深い関係を持ちたいという願望なのです。どれも簡単なことではありませんが、神様はいつも私たちのためにおられます。神様が聖アウグスチヌススの主キリストへの回心を待っておられたのように、主は両手を広げられ、私たちが主の内に憩うのを待っておられます。  もちろん、私たちがどのようにして主の内に安らぐことができるのかを問うのは自然なことですが、聖アウグスチヌスは『告白』の中で私たちに教えてくれていると思います。彼は次のように語ります。  「『人間の内にあることは、その人の内にある人間の霊以外には、誰も知らない * 』としても、その人間の内にある霊ですら知らない何かが、人間にはあるのです。しかし、主よ、あなたがご自分のお造りになった人間の内にあるすべてのことを知っておられます。・・・それでは、私に自分について知っていることを告白させてください。そして、知らないことも告白させてください。じっさい、私が自分について知っていることも、あなたが私を照らされるから知るのであり、私が知らないことは、私の闇があなたの御顔の前で明るい真昼のようになるまで、無知のままです。」(第10巻第5章)。 (*一コリント2・11の引用)  聖ア

悲しみや苦しみからの「嘆きの祈り」

 今でもはっきり覚えています――小学5年生の時、仲良しのクラスメートとそのご両親が、小児がんで亡くなった彼のお姉さんの葬儀で号泣していたときのことと、数か月後、小児がんで右脚を切断されて病院のベッド上で、震えながら、むせび泣いていたサッカー部の元チームメートを抱きしめていた時のことです。  それが、生まれてから初めて、心の中で「なぜ」と泣き叫びながら、内面的に感じていた悲しみによる涙を流した時だった、と思います。当時の教会学校の一人のシスターに、なぜ神様に愛されている子供たちにそんなことが起こるのか、と尋ねた覚えがあるのですが、多分シスターの答えがよく理解できなかったので、何と言われたか覚えていません。  私たち皆、無数の喜怒哀楽を通して生涯を送っています。恵まれていると感じたとき、良いことや成就を経験したとき、神様に賛美と感謝を捧げます。しかし、混沌や困惑、悲しみや苦しみ、死の存在、あるいは人間の脆弱性や無力さに対する感覚によって圧倒されたときには、私たちはどのように祈ればよいでしょうか。  聖書には、悲しみや苦しみの中に捧げる嘆きの祈りの場面が多くあり、そのような状況でも、私たちは神様に向かって、心のこもった嘆きの祈りを捧げることができる、と教えてくれています。  詩編の3分の1以上(50編以上)は嘆きの歌ですー「主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。わが主よ、私の声を聞いてください。嘆き祈る声に耳を傾けてください」(130・1~2)。  嘆きはヨブ記にも頻繁に出てきますー「なぜ、私は胎の中で死ななかったのか。腹から出て、息絶えなかったのか」(ヨブ記3・11)。  また、神様に選ばれた預言者たちも、エレミヤのように神に向かって嘆き叫びますー「なぜ、私の痛みはいつまでも続き/私の傷は治らず、癒えることを拒むのでしょうか」(エレミヤ15・18)。  5つの章で構成される『哀歌』の書は全体で、バビロニア人によるエルサレムの破壊の後に感じられた痛みと苦しみを表現しています。   新約聖書にも同じようなことが書かれています。苦しんでいる人たちは、主イエスに助けを求めて叫びます。盲目の乞食バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫びます(マルコ10・47)。  何よりも、主イエスご自身はゲツセマネの園で御父に向かって嘆いています―「アッバ、父よ、あなた

主を待ち望むことは、自身を主に織り込み、結びつけること

 先日、10歳の頃からずっと応援し続けてきたイングランドのプロサッカークラブ、リヴァプールFCが、ついに30年ぶり19度目のリーグ優勝を飾りました。前回の優勝までの黄金期から応援し続けてきた自分のような「シニア」サポーターにとっては、長年待ち望んでいた味わい深い喜びでした。  私たちの誰もが、いつも待っています―メールへの返信や配達物の到着、何かの達成や成果、状況の改善や問題の解決、病気からの回復や新型コロナウイルスの世界的大感染の終息等々、広範囲にわたる期間と重要性を持つ様々なことを待ちます。  また、私たちがそれをコントロールできるかどうか、それが私たちの選択であるかどうかにかかわらず、残念なことに、待つことは時に非常に困難で苦痛を伴う過程になることがあります。  待つことは聖書の中で広く行きわたっているテーマであり、とりわけ「主を待ち望む」ことの大切さを教えてくれます。  「主を待ち望め。勇ましくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編27・14)  「私は主を望みます。私の魂は望みます。主の言葉を待ち望みます」(詩編130・5)  「慈しみと公正を重んじ、絶えずあなたの神を待ち望め」(ホセア12・7)  「『主こそ私の受ける分』と私の魂は言い、それゆえ、私は主を待ち望む。主は、ご自分に希望を置く者に、ご自分を探し求める魂に恵み深い」(哀歌3・24~25)  聖書は多くの箇所で「主を待ち望む」ことについて語っており、私たちを教え、励ましてくれていますが、主を待ち望むことはただ、受動的に待つことではないのです。自分も「待ち望む」という言葉の本来の意味を知るようになって初めて、その教えをより深く理解し、よりよく実践に移す努力をすることができました。  「待ち望む」は原語のヘブライ語で“qavah” (カヴァ) です。これには「期待して、希望を持って待つ」の意味に加え、「ロープ(縄)を綯う(なう)、撚り合わせる」、または「ロープのように共に結びつけること」の意味も含まれています。それは子縄(ストランドとも言う)を撚り合わせたり織ったりしてロープを形成する過程に似ています。  ロープに撚り合わされたり織り合わされたりするストランドが多ければ多いほど、ロープの強度が強くなります。ひもは多くのストランドを持たないため、重いものをあまり持ち上げることができませんが、ロープは

アドロ・テ・デボーテ(Adoro Te Devote)

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 6月14日(日)は「キリストの聖体」の祭日でした。その日は、とりわけ、ご聖体に対する聖トマス・アクィナスのお祈りを唱えました。    史上最も偉大な神学者の一人と言われる聖トマス・アクィナス(1225-1274年、教会博士)は、「Corpus Christi(キリストの聖体)」の祭日のためにいくつかの祈りの詩を書きました。「Pange Lingua(いざ歌えわが舌よ)、「Adoro Te Devote(謹んで御身を礼拝します)」がその中の2つで、今日でもよく歌われている美しい伝統的な聖体賛歌です。  自分の本国では、毎年のキリストの聖体の祭日や毎週行われる聖体賛美式(ベネディクション)でよく歌われているため、小さい頃から馴染んできた賛歌です。これらの祈りはとても意義深く、心打たれるほど美しく、また、私たちに対する神様の深遠な愛を教えてくれています。聖トマスは"Adoro Te Devote"を次のように始めます。  「パンとぶどう酒の形態の下に隠れておられる神よ、謹んで御身を礼拝いたします。  御身を見つめながらも全く見通す力のない私は、心のすべてを委ねます。  今ここに、見るところ、触れるところ、味わうところでは、御身を認めることができません。  ただ聞くところによってのみ確信します。」  何と輝かしい信仰の声明でしょう。旧約聖書で預言者イザヤはこう宣言しています。「まことに、あなたはご自分を隠される神」(イザヤ45・15)。聖トマスもその信仰の声明で、私たちがご聖体の前で礼拝するとき,パンとぶどう酒の形態の下に隠れておられる神様ご自身を礼拝することを明らかにしています。私たちの感覚が欺かれているのです。私たちが見たり、味わったり、感じたりするものは、私たちの前にある現実を明らかにしません。ご聖体は神様だという不思議で素晴らしい現実です!  "Pange Lingua"の4節、5節に、聖トマスはこのように強調しています。  「 肉となられたみ言葉の一言により、 真のパンは御肉となり、ぶどう酒は御血となった。  五感はこれを測り得ないけれども、まことある心は信仰のみによって堅く信ずるのである。  かくも偉大な秘跡を伏して拝もう。古えの式は過ぎ去って新しい祭式はできた。  願わくは信仰が五感の不足を補うように。」  新約聖書で

聖霊降臨の日に、思いめぐらすことは...

  聖霊は息のようなものであり、 1日2万回と言われる呼吸の親密なリズムのように、私たちが気づくのを忘れてしまうほど、支えてくださる。  初めに、神様は息を吹き込まれた。そして塵で形づくられた人は息を吸い返し、生きる者となった (1) 。ヨブは命のことを、与えられ、取り去られるものである「私の鼻にある神の息吹」として知っていた (2) 。御息によって、創造主は星を灯され、水底を現され、平野に枯れ果てていた骨を目覚めさせられ、聖なる著述に霊感を与えられた (3) 。  聖霊は同じように、数え切れないほど日常の物事にて、元気づけ、生き返らせ、養わせ、支え、語りかけてくださる。聖霊は空気のようにどこにでもおられ、私たちの体に宿ってくださること (4) を意識しよう。   注:(1) 創世記2・7 (2)ヨブ27・3 (3)詩編33・6、18・16、エゼキエル37・5、Ⅱテモテ3・16 (4)Ⅰコリント6・19   聖霊は火のようなものであり、 御父のもとから注ぎ出され、力強く、深遠な変化をもたらしてくださる。  火には単一の形も姿もなく、森林を貫いて燃え盛ることも、余燼の中を飛び回ることもできるし、熱い炭の中でただ静かに発光することもできるが、決して持たれることはできない。生きている者は、熱や光、空を蛇行する煙、燃える木の匂い、灰による目の中の痒みなどを通して、火のことを間接的に知ることしかできない。  火はものを焼き尽くし、その破壊の中で創造し、その創造の中で破壊する。金属を精錬する炎は金を浄化するように、聖霊の炎は、人を変化させ、臆病な者を勇気あるキリスト者に、悔い改める罪人を聖人に、卑しい者を神の道具や聖なる教会の大黒柱に変化させられる。  神様が荒野で、選ばれた民を導かれた時、毎晩、御霊の火の柱によって民を照らされ、幕屋を包まれた (5) 。そして、神様が聖なる教会を創られた時、聖霊の炎はその選ばれた弟子たちの上にとどまった (6) 。「霊の火を消してはいけない」 (7) と使徒パウロが忠告されるように、聖霊の力は不可欠で必要であることを意識しよう。  注:(5)出エジプト13・21、民数記9・15 (6)使徒2・3 (7)Ⅰテサロニケ5・19   聖霊は封印のようなものであり、 家紋を冠した紋章であり、帰属、保護、恵みの約束である。柔らかな蝋に押しつく証印のよう

聖母マリアが私たちに語られた言葉

 先日の夕食にワインが添えられたからか、主イエスが最初のしるしを行われた「カナでの婚礼」(ヨハネ2・1-11参照)で、聖母マリアが語られた言葉を思い起こされました。  「(イエスの)母は召し使いたちに、『この方が言いつけるとおりにしてください』と言った。」(ヨハネ2・5)。  この物語は、マリア様とイエス様がご出席された婚礼の話で、祝宴が終わる前にワインがなくなってしまいました。これは、婚礼の祝宴が数日間続く公の行事でもある1世紀のユダヤ文化では大きな問題であり、もし誰かがワインのおかわりを頼んでもワインがなかったら、新郎新婦とご家族は大恥をかき、そして社会的評判も損なわれるところだったでしょう。  このことを知ったマリア様は直ぐにイエス様に告げ、それから祝宴の召し使いたちに、「この方が言いつけるとおりにしてください」と言われました。つまり、マリア様は召し使いたちに、彼らがイエス様の言われることを忠実に実行する限り、イエス様は問題を解決してくださると言っておられたのです。  これは、聖書に記されている聖母マリアが語られた最後の言葉です。主イエスが最初のしるしを行われる直前、また、公生活の3年間の始まりに御母が語られた言葉です。それは単なる祝宴の召し使いたちへのメッセージではなく、聖母から主イエス・キリストに従うキリスト者である私たちへの大切な言葉だと思います。  これは、聖母マリアが生涯生きておられたキリスト者の生き方であり、そしてご自身のご経験に基づいた、私たち子供たちへの愛情のこもった励ましの言葉なのです。その言葉の前に、御母が「怖がらないで」と言っておられるのが聞こえるような気はしませんか。  物語の中の召し使いたちは、イエス様が何をしようとしているのか理解していなかったにもかかわらず、イエス様の言われたことを忠実に実行しました。 イエス様は,ユダヤ人が清めに用いる六つの大きな石の水がめに水を入れて,それを宴会の世話役のところに持って行くようにと指示されました。  物語のこの部分を読むたびに、召し使いたちがイエス様の言葉にどのように反応していたかをいつも想像しています。  「え?私たちに何をしろと言うのですか」と、彼らはイエス様が狂っているとさえ思っていたに違いないと思います。これまでイエス様はまだ何の奇跡も起こされていなかったため、召し使いたちは主の奇跡の力

美しき聖なる親子水入らずの再会

 復活節の半ば、教会が伝統的に聖母マリアに捧げる5月の「聖母月」が始まりました。  この時期になると、何年も前のある復活祭のミサの後で、なぜか次のような疑問が頭をよぎったのを、思い起こします。  「福音書には、ご復活された主イエスは様々な人に現れたことが記されているが、なぜマリア様に現れたことについて何も書かれていないだろう?それが起こらなかったことを意味しているのか?」  福音書に記載がないことは、主がマリア様に現れなかったことを示しているとは思いませんでした。なぜなら、主が「500人以上の兄弟たちに同時に現れた」(Iコリント15・6)と、使徒パウロが証ししていますが、そのようなたくさんの人たちが関わった出来事は福音書にも記されていないからです。  また、マリア様ご自身も確かに、聖霊降臨の直前まで集まっていた弟子たちの共同体と共におられたため(使徒言行録1・14)、ご復活後の40日間、主はマリア様のもとに御姿を現されなかったのは考えにくいと思いました。  とは言え、御母であるマリア様は主イエスが飼葉桶にお生まれになった時から十字架の上に亡くなられた時まで共におられたため、正直、ご復活された主がマリア様への御出現について、一言でもよいので福音書記者に記してほしかったな、と思っていました。  それから、その翌年の復活節の頃だったかもしれませんが、なぜかまた、このことをより深く考え始めました。  あくまでも自分なりの思いでしたが、主イエスがご復活の後にマリア様にも現れただけでなく、マグダラのマリアや弟子たちよりも、他の誰よりも、先にマリア様に御姿を現されたではないかと思うようになりました。なぜそう思っていたかと言えば、次のような場面を思い巡らして想像していたからです。  マグダラのマリアをはじめ婦人たちが日の明け方に墓に行ったが、主はすでにご復活され、マリア様も彼女たちと共におられなかったのです。なぜなら、主がすでにマリア様に御出現されたからのではないだろうか?  お墓に行った婦人たちは、聖金曜日に、心が揺らぐことなく、ずっと主と共にいた忠実な者だったため、最初にご復活された主と会う人たちに選ばれたのかもしれない。だとすれば、聖金曜日に、主に非常に忠実なもう一人の方がおられた。それがマリア様だった。  マリア様はご自分の息子である主イエスの受難と十字架に対して、比類なく

神のいつくしみの主日の黙想

復活節第二主日、  神のいつくしみの主日でした。    神聖な静けさに包まれたお御堂で、  ほんのりとした香の香りが漂い、  沈黙の内に祈り、心静かに、  神のいつくしみを黙想しました。    「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、  私を思い出してください。」 (ルカ23・42)   徐々に思い浮かんできた、  命が尽きかけていた犯罪人の祈りでした。   十字架に付けられ、苦しみにいた犯罪人から、  傍らで十字架に付けられ、苦しみにおられ、  共にいてくださった 主イエスへの祈りでした。    犯罪人は自分の罪を悔い改め、 (ルカ23・41)   苦しみからの解放も、死からの救いも求めず、  主イエスがただ自分のことを覚えてくださっていれば それだで十分だ、と祈りました。    その日、彼は神のお恵みによって、  多くの人が見られなかったものを見られたのです。  神の御子、救い主であるメシア、王であるキリストに身を委ね、  御国と御心の行いを求めました。    「よく言っておくが、  あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」 (ルカ23・43)   主イエスが彼に応えられ、  何と素晴らしい約束でしょうか。   「生贄を望まれず、燔祭を喜ばれない神は、  悔い改める心を見捨てられません。」 (詩編51・18-19参照)  私が良い人だから神に救われるのではなく、  罪人である私が、神のいつくしみによって救われるのです。   それに先立ち、同様に十字架に付けられ、  苦しみにいたもう一人の犯罪人も、彼なりに、祈りました。  彼にとって、主イエスは何でもできる奇跡起こしのメシアであり、  とにかく、今の苦しみから解放して救ってくれ、と。 (ルカ23・39参照)    自分自身もそのように祈っているときがあるのでは、 と気が付きました。 神の御国と御心の行いを求めず、  欲しいものや自分が楽になることばかりの祈りでした・・・。    主イエス、あなたを信頼します。    あなたの約束に適うものとなりますよう、  神のお恵みを注いでください。    アーメン。

主の平和!

アレルヤ!主はまことに復活されました!   残念ながら、全典礼暦年の頂点となる聖なる過越の三日間の典礼とミサにあずかることができず、例年のように復活祭の喜びを教会共同体として集まって共に祝うことができないまま、復活節が始まりました。確かに、私たち、否、教会全体が、今、これまで経験したことも想像したこともないような形で、典礼暦の日々と信仰生活を送っています。     それにもかかわらず、主は復活されました!     そして、復活された主キリストは、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ 20 ・ 19 )私たちに語っておられます。     主イエスが十字架上で亡くなられたとき、三年間日々共に歩み、共に生活していた弟子たちの世界はひっくり返りました。彼らの主であり、師であり、友であり、希望であり、彼らの全てである主イエスが、無残にも鞭打たれ、打ちのめされ、十字架に釘付けにされたのを、彼らのうちの一人を除き、ほとんどがどこかで遠くから見ていたのではないでしょうか。服を剥ぎ取られ、棘の冠をつけられて、あざだらけで血まみれの主イエスでした。     恐怖に陥り、不安でいっぱいになった弟子たちは、主イエスのように苦しむことを恐れ、全てのドアに鍵をかけて家の中に引きこもりました。弟子たちは、これからどうすればいいのか分からず、時間が経つごとに誰かに見つかり、引きずり出され、殺されてしまうのではないかと恐れていました。弟子たちは、かつて暗闇と嵐の中で船に乗っていた時に感じていた恐怖よりも、今の方がより強く、根深い恐怖を持っていたに違いありません(マルコ 4 ・ 37-40 参照)。弟子たちの中には、少なくともあの時は主が自分たちと一緒にいて下さったし、主がいなかったとしても、残酷な苦しみを受けて十字架に釘付けにされるよりは、あの時に溺れてしまった方がマシだと思った人もいたのではないでしょうか。   そこに、復活された主イエス・キリストが、そのような絶望の中にいた弟子たちの前に現れ、その最初の言葉は「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ 20 ・ 19 )でした。それによって主イエスは、受難の前にすでに彼らに語られた平和のことを思い出させ、彼らが抱いていた確かで非常に現実的な恐怖の中にあっても、主にあって平和で

贖いは暗闇の中で…

 公開の御ミサにあずかることができない、また肉体的ご聖体拝領もできない状況は 1 ヵ月続いてきましたが、新型コロナウィルスのパンデミックで感染者数が日に日に増加し、深刻化しつつある中、こんな状況は当面、無期限に続くことになっています。  四旬節中、そしてこれから迎える聖週間と、全典礼暦年の頂点となる聖なる過越の三日間並びに復活祭を祝う御ミサにあずかることができないなんて、世の中のカトリック信者では誰も想像したことがないことです。  このような予期せぬ変化や苦しみによって揺さぶられている世の中、私たちは実に大きな試練に直面し、私たちの信仰が厳しく試されていると思います。  私たちの生活の暮らし方、更には礼拝の仕方を変えているこのパンデミックはいつまで続くのか誰も予測できない中、人間の無力さをあらためて実感させられています。しかし、私たちが抱えているこの無力感は、私たちが神様に依存することはいかに重要であるかを示しています。また、この無力感こそ、聖なる御ミサの欠如は無駄にならない、実りのないことではないという、深い不変の謙虚さを齎してくれると思います。  最後にあずかった御ミサは一ヵ月前の四旬節の始まりである灰の水曜日でした。 灰の式で、司祭を通して、主イエスが「回心して福音を信じなさい」(マルコ 1・15 参照)と仰せになり、私の額に灰を付けられました。  私たちは四旬節を通して、荒れ野での主イエスの神秘に心を合わせ(カトリック教会のカテキズム 540項 参照)、主イエス・キリストに目を向け、神の御言葉に耳を傾け、絶えず祈り、内的と外的の断食、善行を通し、悔い改めて神様に心を傾注するよう、呼びかけられています。  御ミサにあずかることすらできない、不確実性や苦しみに満ちた暗闇に陥った今日のご時世でも、主イエス・キリストは変わらずに私たちを呼ばれています。  暗闇の中で、強風と波が襲い掛かった舟に乗っている弟子たちが溺れ死ぬのを怖がっていた時、主イエスが嵐を鎮められ、  「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」と仰せになりました(マルコ 4 ・ 37-40 参照)。  暗闇の中で、荒れている湖の上に歩かれた主イエスは  「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と仰せになりました(マタイ 14 ・ 2