投稿

6月, 2021の投稿を表示しています

「聖ペトロの否認」を思い巡らす

 新約聖書(「四福音書」「使徒言行録」「ペトロの手紙」)を通して、使徒聖ペトロについてのことや彼の言行、教えを読んだり、思いを巡らせたりしていくうちに、多くのことを教わりながら、聖ペトロに親近感を覚えるようになり、色々な意味で共感できるところもあるように感じています。 常に素朴で正直な心で、主に従う   聖ペトロは極々平凡な人間であり、初めて主イエスに出会った時から終始、主の御前では素直で、率直な気持ちや思いを隠すことなく―「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」(ルカ福音書5章8節)―ありのままの自分の弱みをもって、素朴で正直な心をもって主に従っています。  僕としては、福音書に記されているペトロの一言一句を「聴き」、それぞれの場面を「観る」ようにすることにつれて、ペトロにとって主イエスがどれほど大切な存在であるか、ペトロはどれほど主を慕っているか、どれほど主から離れずにずっと一緒にいたいと思っているか、どれほど主イエス・キリストを心から愛しているかが伝わってきます。  たとえ主イエスの御教えをまだ十分に理解していなくても、たとえ自分の信仰がまだ十分でなくても、たとえ周りの様々な事情や誘惑、自身の弱さなどによってつまずいたり転んだりしていても、あきらめず主の助けと力を求め続け、心から悔い改め、迷うことなく主を信じ、主に従い続けることを、ペトロが身をもって範を示し、教えてくれているような気がします―「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ福音書16章16節)「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉をもっておられるのは、あなたです。」(ヨハネ福音書6・68~69節)。 「否認」なのか「裏切り」なのか  ある人たちにとって、ペトロが「主イエスを知らない」と三度言ったことを、「ペトロの裏切り」と見なしているようです。また、主を(実際に)裏切ったユダのほか、「ペトロも主イエスを裏切ったのだ」とし、この「二人の裏切り行為」が比較されることも少なくないようです。  どうしてペトロにそのようなレッテルを貼っているのか、僕には理解し難く、悲しく思っています。  「人を裏切る」ことの意味や定義を議論するつもりはありませんが、そのような行為には計画的な利己動機や意図が込められているのではないでしょうか。私たちは、当惑したり混乱したりする瞬間に、誰かや何かを