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弱い者の中におられる、王であるキリスト

  「あなたは王なのか」と、尋問したポンティオ・ピラトは 「この人は一体、何者なのか」と、不思議に思っていました・・・。 「この人」は、貧しく、知名度のない、小さな村で育ち、 彼の両親は、有名人でも、権力者でも、裕福でもなく、 最初に彼を訪れた人たちは、最も貧しい羊飼いでした。 「この人」は、人々を率いて戦場へと導くことはなく、 「自分の十字架を負って、私に従いなさい」と、促されました。 「この人」は、権力者やお金持ちと食事をしたり、付き合ったりしませんでしたが、 軽蔑され、無視され、見捨てられた人たちと一緒に食事をし、 価値がなく、罪人だと見なされている人々に、御手を差し伸べられました。 「この人」は、多くの召使いに仕えられた豪邸を住まいとしませんでしたが、 貧しい人、病人、傷ついた人、そして愛と癒しと慈しみを必要としている すべての人々と一緒に時間を過ごされました。 「この人」は、世間が重視するような富も財産も所有しませんでしたが、 ご自分の最も偉大な所有物―全能の神の無限の愛を 私たちと分かち合ってくだいました。 この御方が、「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、 傷ついたものを包み、弱ったものを強く」 (エゼキエル34・16) してくださる私たちの牧者であり、 私たちの王である主イエス・キリストなのです。 王である主イエス・キリストは、 「飢えている人、渇いている人、貧しい人や病人、 見捨てられた人や牢にいる人」 (マタイ25・36-40) の中で見いだされ、 最も弱い立場の人々の中におられます。 私たちが互いのために何をするにしても、 私たちは主イエスのために行うのですから、 私たちが心を開き、目を開くなら、出会うすべての人の中で 王であるキリストにお会いすることができるでしょう。 主イエスは王であり、 主の兄弟姉妹としての私たちは、主の王室に属しています。 そのため、主の王室の一員として、私たちは互いに相応しい尊厳と敬意をもって、 接することができますように。 「キリスト者よ、 自分の尊厳と気高さを自覚しなさい。 あなたが分かち合うのは、神ご自身の命なのです」と、 初期の教皇の一人が言われましたように。 [関連記事] 王であるキリストをほめたたえよ(2019.11.19)

「聖性」の始まりは「神の創造物である自分」を愛すること

 初めて聖人に関する本を読んだのは、堅信を授かった12歳の頃でした。父からお祝いにプレゼントしてくれた様々な聖人についての短い紹介集でしたが、読み始めると、とても興味をひかれ、それ以来、様々な聖人に関する本をより深く読むようになりました。  様々な聖人のことについて、また聖人から学ぶようになるにつれ、彼らの個性や経歴はそれぞれ大きく異なるものの、神様への忠実な愛、そして隣人を愛する姿勢がとても似ていることがわかりました。教皇フランシスコが次のように美しく表現されています。  「聖人たちは、光が異なる色合いで入ることができる教会の(ステンドグラスの)窓に例えることができます。彼らは、神の光を心の中に迎え入れ、それぞれの「色相」に従って、世に伝えています。しかし、彼らは皆透明で、神様の穏やかな光が通り抜けられるように、罪の汚れと闇を取り除くために、力を尽くして、努力していました」(2017年11月1日、「お告げの祈り(日曜・祭日正午の祈り)」での講和)。  以前にこのコラムで教会の典礼暦について、分かち合わせていただいたことがありますが(「日日好日」―典礼暦年を生きる)、聖人たちは、また、私が典礼暦が大好きな理由の1つです。神聖な点呼のように―例えば、ある日は幼きイエスの聖テレジア、次にアシジの聖フランシスコ、その次に、アヴィラの聖テレジア、聖イグナチオ(アンチオケ)、聖ヨハネ・パオロ二世教皇など―異なる個性や経歴を持った聖なる大先輩たちは、次々と行進して通り過ぎていき、私たちはついに「諸聖人の祭日」(11月1日)にたどり着きます。  この日には教会の歴史上の列聖された聖人たちだけでなく、天国にいる数多くの無名の聖人や、日常生活の中で神様の光を輝かせている普通の善良な人々も、含まれています。このように、聖徒の栄光ある交わりは、私たちと共に祈り、私たちのために祈ってくれる膨大な数の信仰の同伴者を与えてくれています。  「カトリック教会のカテキズム」は、「『どのような身分と地位にあっても、すべてのキリスト信者がキリスト教の生活の完成と完全な愛に至るよう召されています』。すべての人が聖性へと召されています」(2013項)と教えてくれています。つまり、私たち全員が例外なく、聖人になるように招かれているのですが、教皇フランシスコが次のように述べられています。  「私たちはしばしば