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キリスト者として、人に感謝すること

 かつては友人からこのようなユニークな観点を聞いたことがあります。  「あなたは誰かから好意や援助を受けたとしよう。その人に感謝するのは一般的に筋だと思われている。しかし、そもそもその人がしてくれた善いことに必要なすべての能力、機会、意欲、そしてその人の命、呼吸、存在そのものは、神様がその人に与えられているのです。すべては神様が与えてくださっているのだから、神様だけに感謝するのが正しいのではないか」。  そもそも、人に対して感謝の気持ちを持つことは、ごく自然なことで、なぜそんなことを疑問に思ったのか不思議でした。そして友人は「なぜなら聖書には、一人の人間が何かに対して他の人間に明示的に感謝するところがないからです」と答えました。  なるほど。結局のところ、あらゆるものを通して、あらゆるものにおいて、神様こそが究極の与え主だから、神様以外の人に感謝することは適切なのでしょうか、ということです 神様に感謝すること    「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」(ローマの信徒への手紙11章36節)、「また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです」(使徒言行録17章25節)と、使徒パウロは教えます。  そのため、私は誰かに助けられたり、誰かから恩恵を受けたりしたとすれば、神様がその人を創られ、息を吹き込まれ、助けてくれる心を傾けられたのだから、その人ではなく、神様だけに感謝すべきなのです…か。  もちろん、神様はすべてを与えてくださったのですから、神様に感謝すべきことです。私たちが感謝するとき、最終的に念頭に置くべきことは、私たちに起こるすべての良いことの与え手であり支え手であり、摂理にかなった導き手である神様だと思います。  しかし、これらの真理は、私たちが他人から受けた恩恵に感謝すべきでないことを意味している、とは思いません。人間は、神様が望まれる多くの善いことを行うために、主の御手の中の器となることは、誰も認めるところでしょう。 主の御手の中の器    例えば、主イエスは使徒パウロについて、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ...

主イエス・キリストを通して再び始める

  父がくれた一冊の本  中学時代のある元旦の朝、父から一冊の本をくれました。橙色の表紙には、汗をかきながら崖を登っている少年のイラストが描かれ、「Press On!」(=あきらめずに一生懸命推し進める)という本のタイトルが大きな太文字で書かれていました。  著者の名前はもう覚えていませんが、欧米系の某カトリックの司祭が10代の若者たちに向け、これからの人生で、とりわけ信仰と霊的成長において直面する様々な課題について書かれた本です。  その本を読み始めると、興味深く感じ、その日の夜に一気に読んでしまった記憶があります。それ以来、毎年の年始に必ず再読し、自分自身の成長につれて毎回新たな感触や観点を受けることができました。  残念ながら、社会人になってから故郷を離れ、何度かの引っ越しを重ね、いつの間にかその本を紛失してしまいました。とっくに絶版になっているようで、何年も探していたのですが、今日の電子書籍の時代でさえもどう探しても見つけません。  その本を何度も読み返したことがあったため、全てではありませんが、幸いにも一部の内容やその司祭の教えを今でも覚えています。そして今でも毎年の年始に、まだ記憶に残っているその一部の内容を思い起こしながら、自分自身の反省と励みになる材料にしています。このようなことが今でもできるのは、やはり数十年前の元旦の朝、「これを読め」と言ってその本を渡してくれた父のおかげです。父ちゃん、ありがとう! 「過去の棚卸し」と「新たな抱負」  1年を終え、新たな1年を迎えるにあたり、程度の違いがあるでしょうけれど、私たちはおそらく一旦立ち止まって、過去一年の棚卸しをするでしょう。自分の失敗を認めたり、反省したりして、正直に自己評価します。  そして、そこから学び、より良い未来へ向かって進んでいくことを決意するでしょう。私たちは皆、より良くなりたい、より充実した人生を送りたい、より無私の心で互いを愛したい、と願っているため、新たな抱負を立てるのではないでしょうか。  問題は、なぜそうするのか、ということです。それは、私たちの心の奥底にある憧れのようなものが現れているからではないでしょうか。神様に与えられた人間の自由を行使し、より良い生き方を選択するよう、私たちを招いているものなのだと思います。しかし私たしは、自分たちの能力だけではそれを行うことがで...

人生の壁は“句読点”、“終止符”ではない

  古代エリコの壁は…神の御力で崩れた     考古学的調査によると、世界最古の町と評される古代エリコ(紀元前8000年以降)の城壁は二つの壁から構成されていました―高さ約13メートル、厚さ約2メートルの外壁と、その内側の斜面の上に築かれた高さ約8メートル、厚さ約4メートルの内壁と。加えて、幅約8メートル、深さ約3メートルの空堀が外壁を囲んでいた、そのため当時の人たちは空堀の先の地上から城壁を見上げると、2つの壁が高さ20メートルほどの1つの壁のようにも見えたのだろう、と言われています。  それが、ヨシュアと彼が率いるイスラエルの民が直面した、「高くそびえ立ち、難攻不落」のように見える壁でした。おそらくその時は、「こんな要塞を突破できるわけがない」と、意気消沈していた人たちも、多かれ少なかれその中にいたのではないでしょうか。しかし、ご存知のように結果として、やはりヨシュアたちの人間的な力ではなく、神様の御力だけで城壁が崩れ落ちました(ヨシュア記6章参照)。 人生の壁    私事ですが、ここしばらく壁に直面していて、「なぜこんな壁が現れたのか?乗り越えられるのか」と疑問に思うことがあります。壁にぶち当たることは人生の一部だ、と言われています。とは言え、できることなら誰もが壁を避けたい、と思っているでしょう。  身体や心の状態に影響を及ぼすような種々の壁が、人生の旅の所々で現れてきます。そして壁が大きければ大きいほど、その向こう側が見えなくなったり、壁を突破して向こう側に行き着くことが不可能のように見えたりします。  また、人生の壁もエリコの城壁のように、単独で立ちはだかることはめったにありません。多くの場合は、苦しみや不安、落胆、恐れ、などといった深い堀を伴っています。同時に、希望の感覚を奪おうとするような種々の外的影響力が、私たちを襲ってくるときもあります。  「もし神様が私たちをとても愛しておられるのなら、なぜこのような壁が私の周りに現れるのを、許されるのだろう」と、疑問に思うことはありませんか。正直なところ、僕はそれに対する明確な答えを持っていません。  ただ、このような状況に直面するとき、どんなに辛くても、またどんなに無力感に襲われても、それでもなお、決して希望を捨てず、絶えず主の御力と助けを求め続けることが最も大切なこと...

聖母マリアの初聖体

 御聖体を拝領する前に、私たちは沈黙の内に各々の心の中で祈り、相応しい心の準備をします。自分の場合、最後に「アヴェ・マリアの祈り」を祈り、それから御聖体の秘跡に与ります。これは別に子供の頃からの習慣でもなければ、誰かにそうしなさいと言われたからでもありません。  いつからそうしているかは正確に覚えていませんが、回勅『 教会にいのちを与える聖体 』(2003/04/17 “ ECCLESIA DE EUCHARISTIA ” )の中で、聖母マリアにとって、その初聖体にはどのような意義があったのかを思いめぐらした教皇聖ヨハネ・パウロ二世の考察を読んでから深い感銘を受け、御聖体拝領の直前に「アヴェ・マリアの祈り」を祈るようになりました。なぜなら、聖母マリアはいつも私たちの注意を主イエス・キリストに向けさせておられるからです(2019/09/25 「 『アヴェ・マリアの祈り』、聖書のルーツをもつキリスト中心のお祈り 」参照)。   初めてミサに与る聖母マリア    聖母マリアの初聖体がいつ行われたかは誰にもわかりませんが、その瞬間のマリア様を想像してみましょう。エルサレムかガリラヤのどこかで、使徒の一人がエウカリスチア(感謝の祭儀・ミサ)のいけにえを捧げています。主イエスの最初の弟子たちの多くが集い、マリア様もそこにおられ、初めてミサに与ります。  マリア様は「最後の晩餐」におられませんでした。主イエスがその夜、使徒たちに命じられたこと、すなわち、パンとぶどう酒を取り、ご自分の御体と御血を捧げ、そして、「私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ福音書22章19)と言われたことを、マリア様が使徒たちから聞かされたのでしょう。今、マリア様は初めてこの御聖体の聖なる秘儀に与ります。  使徒たちがパンとぶどう酒を取り、「これは私の体…これは私の血…」と言っているのを見ながら聞いているマリア様を想像してみてください。それから、御聖体を拝領しているマリア様の様子を想像してみてください―自ら産み育てた我が子の御体と御血が、再び自分の中に宿っておられるのです! 教皇聖ヨハネ・パウロ二世の2つの主な洞察  聖ヨハネ・パウロ二世はまず、自らの胎に主イエスを身ごもる聖母マリアと、御聖体を拝領する人との間にある深遠な繋がりについて思い巡らされます。ある意味で、御聖体を拝領するた...

私たちに与えられた時間をどうするか

 「こんなことが起こらなければよかったのに…」    今年3月に海外の大学に入学した姪っ子と久しぶりにオンラインチャットしました。コロナ禍のせいでまだロックダウン実施中の現地国へ行けず、自宅で完全にオンライン形式の授業を受け、無事に第一学期を終えましたが、9月から始まる第二学期も当面の間まだ現地に行くことができないそうです。  いまだに実際の海外留学生活の体験ができない彼女は、軽く愚痴をこぼした後、「私の時代にこんなことが起こらなければよかったのに」と言いました。それを聞いた私は、ふとその言葉に聞き覚えがあると思ったのですが、その時は思い出せなかったので、そのことには触れず、彼女の気持ちを理解しながら励ましました。  数日後、その言葉をどこで聞いたことがあるかは急に思い出しました―英国の文献学者、作家、詩人の故J・R・R・トールキンの傑作『指輪物語』三部作(原題:ロードオブザリング/The Lord of the Rings)の第一部の『旅の仲間』(原題:The Fellowship of the Ring)でした。  「中つ国」(ミドル・アース)を舞台に、主人公のフロドを含む9人の旅の仲間が、邪悪な冥王サウロンを完全に滅ぼすため、全てを統べる「一つの指輪」を破壊する物語です。若き主人公のフロドが、邪悪な力の指輪を破壊できる唯一の場所、すなわち邪悪そのものの中心に運ぶことができる唯一の純粋無垢な人です。  しかし、中つ国全体の運命がフロドにかかっていることを考えると、フロドにとってそれは恐ろしい重荷となります。邪悪なものは常にその指輪を求め、彼に付きまとい、彼とその運命的な任務に加わった仲間たちを滅ぼそうとします。  物語の中で次のような会話をする場面があります。指輪の暗い歴史と邪悪な冥王サウロンの帰還を聞いた後、フロドは 「指輪が僕の手に渡らなければよかったのに。僕の時代にそんなことが起こらなければよかった」 と言います。  冒頭で、姪っ子も、無意識に軽く愚痴っていた同じような言葉ですが、私たちも様々な状況において何度同じような思いを抱いたことがあるのでしょう。それが悲劇であれ、心痛であれ、悩める時期であれ。「なぜ私なのだ?神様よ、なぜ私がこのような苦しみや悲しみを背負わなければならないのですか」。  多くの人々の命、愛する人々の命、そして多くの...

使徒パウロとオリンピック

 子供の頃から、4年に一度開催される夏季オリンピックを見るのが大好きです。個人的に好きなスポーツの個別の世界大会を見るのも好きですが、世界中のトップアスリートたちが集まって一斉に競い合う数多くの競技をたくさん見ることができるのは、オリンピックだけです。   懸命に頑張る選手の姿にパウロを重ね合わせる   アスリートたちが皆全力を尽くし、世界トップレベルの身体と運動能力や精神的な強さを最大限に発揮し、最高のパフォーマンスや技術を披露していく姿には、いつも心を動かされ、感動を受けています。  東京2020オリンピックも2年前から、大いに楽しみにしていましたが、とても残念なことに世間の賛否両論の中で、コロナ禍の暗黒の闇に覆われた無観客の大会となってしまいました。アスリートたちにとっても、このような未曾有の状況において、これほど精神的な強さが大いに試される大会はないのではなかろうか、と思います。  しかし、このような状況でも開催された以上、彼らはひたすら目標に集中して頑張って行かなければなりません。努力に満ちた長い歳月を経てここまで誠実に辿り着いた世界中のアスリートたちは、どのような逆境に直面したか、どれほどの艱難辛苦に耐え、どれほど精神的に試され、乗り越えてきたかは、本人たち自分自身のみ知ることです。  そのようなわけで、オリンピックで懸命に頑張っている多くのアスリートたちの姿を見ると、いつも使徒パウロの教えを思い出され、改めて反省し、学ばせてもらっています。 パウロは陸上競技を例えに使っている  使徒パウロは、いくつかの書簡の中で、何度も陸上競技の世界の比喩を使っています。3つの書簡では、全力で走るイメージを用いて、霊的な成長と奉仕の活発で合法的な追求を促しています。また、自分の成長と奉仕について、4回も、そのような走りに例えて語っています。  紀元前776まで遡るオリンピックは、運動能力、練習や鍛錬、および競争力の頂点を表しています。パウロはもちろん古代オリンピックのことを知っていましたし、オリンピックの前後の2年に一度のコリントス地峡で開催される「イストミア大祭(競技会)」(古代ギリシア四大競技会の一つ)もよく知っているはずなのです。  そのため、霊的に豊かに恵まれてはいますが未熟なコリントの信者たちに、パウロはこう書いています。「あなたがたは知らないのです...

「聖ペトロの否認」を思い巡らす

 新約聖書(「四福音書」「使徒言行録」「ペトロの手紙」)を通して、使徒聖ペトロについてのことや彼の言行、教えを読んだり、思いを巡らせたりしていくうちに、多くのことを教わりながら、聖ペトロに親近感を覚えるようになり、色々な意味で共感できるところもあるように感じています。 常に素朴で正直な心で、主に従う   聖ペトロは極々平凡な人間であり、初めて主イエスに出会った時から終始、主の御前では素直で、率直な気持ちや思いを隠すことなく―「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」(ルカ福音書5章8節)―ありのままの自分の弱みをもって、素朴で正直な心をもって主に従っています。  僕としては、福音書に記されているペトロの一言一句を「聴き」、それぞれの場面を「観る」ようにすることにつれて、ペトロにとって主イエスがどれほど大切な存在であるか、ペトロはどれほど主を慕っているか、どれほど主から離れずにずっと一緒にいたいと思っているか、どれほど主イエス・キリストを心から愛しているかが伝わってきます。  たとえ主イエスの御教えをまだ十分に理解していなくても、たとえ自分の信仰がまだ十分でなくても、たとえ周りの様々な事情や誘惑、自身の弱さなどによってつまずいたり転んだりしていても、あきらめず主の助けと力を求め続け、心から悔い改め、迷うことなく主を信じ、主に従い続けることを、ペトロが身をもって範を示し、教えてくれているような気がします―「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ福音書16章16節)「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉をもっておられるのは、あなたです。」(ヨハネ福音書6・68~69節)。 「否認」なのか「裏切り」なのか  ある人たちにとって、ペトロが「主イエスを知らない」と三度言ったことを、「ペトロの裏切り」と見なしているようです。また、主を(実際に)裏切ったユダのほか、「ペトロも主イエスを裏切ったのだ」とし、この「二人の裏切り行為」が比較されることも少なくないようです。  どうしてペトロにそのようなレッテルを貼っているのか、僕には理解し難く、悲しく思っています。  「人を裏切る」ことの意味や定義を議論するつもりはありませんが、そのような行為には計画的な利己動機や意図が込められているのではないでしょうか。私たちは、当惑したり混乱したりする瞬間に、誰かや何かを...

「クロノス」の世界で「カイロス」を生きる

  久しぶりに聞いたクロウチのバラード   1973 年にアメリカビルボード( Billboard ~米国最も権威のある音楽チャート)1位に輝いたバラードがありました。その曲は次の歌詞で始まります。 If I could save time in a bottle   もし僕が瓶の中に時間を貯めておけるなら The first thing that I ’ d like to do  僕は真っ先にやりたいことは Is to save everyday till eternity passes away  毎日を永遠が過ぎ去るまで貯めておくさ Just to spend them with you.  ただそれらを君と一緒に過ごすために。(拙訳) 美しいアコースティック・ギターのアルペジオをバックにそう歌っていたのは、アメリカのフォーク系シンガーソングライターのジム・クロウチ( Jim Croce )でした。 この「 Time In A Bottle (タイム・イン・ア・ボトル)」という曲(ネットで検索すればすぐに視聴できる)は、もともとジム・クロウチが最愛の妻の妊娠を告げられた時に書き上げたものでしたが、 3 年後に不慮の飛行機事故で彼が他界後、この曲が全米 No.1 ヒット・シングルとなったと言われています。 この曲を初めて聞いたのは 1981 年、ギターを始めたばかりの中学 2 年生の頃でしたが、年を重ねるごとにすっかり忘れていたのですが、先週、偶然にもネットで久しぶりに耳にしました。 ジム・クラウチの歌詞を振り返ってみると、妻への深い愛情が明白に表現されていることは言うまでもありませんが、同時に、「カイロス」という時間の概念も微妙に表されているように思います。 古代ギリシア語の「時」を表す二つの言葉 古代ギリシア語で「時」を表す言葉は「クロノス」( Chronos )と「カイロス」( Kairos )の2つ。前者は時計やカレンダーで計れる「量的な時間」( 1 時間は 60 分、 1 日は 24 時間、 1 ヵ月は 30 日間など)です。後者は計ることのできない、かけがえのない「質的な時」を指すほかに、「機が熟す時」「適切な時」「完璧なタイミング」といった意味合いがあります。また、カイロスには精神的(霊的)な感覚が伴...

「万軍の神なる主の名によりて来たる者」を思い巡らす

  3月28日の「受難の主日(枝の主日)」のミサで、第二朗読が読まれている間――「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず/かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました......」(フィリピの信徒への手紙2章6節~11節参照)――なぜか、主イエスがゲツセマネの園で捕らえられる直前に言われた次の言葉が、一瞬頭をよぎりました。  「私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」(マタイ福音書26章53節)。  かつて、この『軍団』というのはどういった区分なのかを簡単に調べたことがありますが、当時の帝政ローマ時代では、一つの軍団(ラテン語では「レギオー、legio」)は約6千人の軍団兵(「レギオーナーリウス、legionarius」)編成のものだったと言われます。単純に計算しますと、「12軍団以上の天使」は7万2千人以上の天使ということになるでしょう。  このように、天使の軍勢が当時の世界最強のローマ軍のイメージに重ねられ、また「12」の数字は、聖書でよく使われる重要な事柄を表す「完成数」(「12部族」「12使徒」など)というわけで、「12軍団以上の天使」とは、「ローマ軍さえもかなわないほどの、数多く力強い天使」ということを表しているでしょう。  では、さらに考えてみれば、これほどの数の天使が発揮できる総合力はどのようなものになるのでしょうか。イザヤ書には、神を罵り、神の民の滅びを図ろうとしたアッシリア王から神の民を守るため、一人の天使が一晩でアッシリアの陣営で18万5千人を全滅させた、と記されています(37章36節参照)。これも単純計算すれば、一つの軍団の天使が11億1千万人を、十二軍団以上の天使が133億2千万人(今日の世界人口の約2倍)以上を全滅させることができるということになるでしょう。  すなわち、ゲツセマネの園で、主イエスはその気になれば、それほどの力強く、大いなる守りを御父から得ることができるにもかかわらず、私たちの救いのために、御受難と十字架の道をお受け入れになり、御父から与えられた使命に完全に果たされようとされ、そのような助けをお求めにならなかったのです。  確かに、主イエスを御自身の意志に反して連れ去るほど、強い人間の力が地球上のど...

神様の無限の素晴らしさと美しき御業を垣間見る③

 今週の月曜日(2月8日)から来週の火曜日(2月16日)—灰の水曜日の前日まで、教会の毎日のミサ(第6主日を含む)の第1朗読で、創世記の最初の数章が読まれています。創世記は、神様が天地を創造され、神様と人類との関係の始まりの物語を語っています。この関係は、神様が世界を形造られたときに始まりました。 神様が創造され、ご自分の創造を御覧になり、全ては極めて良しとされました(創世記1章31節)。  ちょうど1年前、2回の記事にわたって、私たち人間の想像力や理解力をはるかに超えた、神様の壮大で美しい御業を少し垣間見ることを共有しました( 「神様の無限の素晴らしさと美しき御業を垣間見る① 、 ②」 )。ちょっとした「天ノ篇」と「地ノ篇」のような形式だったと思います。今回はその「人ノ篇」として、私たち人間を創造された神様の驚異的な御業をもう少し垣間見ながら、このテーマを完結したいと思います。  3,000年前、ダビデは次のように唱えました。  「人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。  人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。  あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ  栄光と誉れの冠を授け(た)」(詩編8編5節~6節)。  今日、神様は現代科学での研究と発見を通じて、徐々に、ほんの少しずつ、人間の驚くほど不思議な素晴らしさをお示しくださっておられます。  人間の体は約37兆個の細胞でできていると言われています。それは78億人ある世界人口(2020年)の約5倍に相当する数です。また、その1個の細胞は約100兆個の原子の結合によって形成されています。  私たちの脳に存在する約1000億個の神経細胞(ニューロン)を一直線に繋げた場合、100万キロメートルにもなると言われています。これは1周約4万キロメートルの地球を25周もできる距離です。これらの神経細胞は、私たちの一般的な日常生活の外界環境から、毎秒100 億ビットにも達すると言われている感覚情報を処理しています。これは約180枚の1600万画素数の高画質デジタル写真相当の情報量です。  私たちの網膜には、片目だけで、600万個の錐体細胞(明るい場所で色を識別する)と1億2千万個の桿体細胞(暗闇で僅かな光でも感知できる)が存在し、それらは120万本の神経線維を通して脳に情報を送ることによって、私たちが15センチ先の文庫本の細...

神様が好きな香りは・・・

 私はほとんど毎朝の朝食時にコーヒーを飲みます。早朝に淹れる挽きたてコーヒーの濃厚で深い香りが特に大好きです。この香りは、妻や両親、兄弟や親しい友人たちとコーヒーをゆっくり飲みながら、共に過ごしていたひと時をしばしば思い出させてくれます。昔、小さなコーヒー焙煎屋の近くに住んでいた頃の子供時代のことさえ思い浮かばせてくれます。  ただ単に香りだけでなく、それに伴う心地よい充足感、ノスタルジア(郷愁)や思い出が好きです。この特定の香りが私をどのようにかき立てるのかは説明できないのですが、そこにはきっと奥が深いだろうと思います。  私たちの信心深さが香りのように神様に向かって昇っていくとき、おそらく、神様も同じように感じられるのかもしれないと思います。神様はより深遠な喜びで、その香りをお受入れくださるのではないでしょうか。  神様はイスラエルの祭司たちに、絶えずかぐわしい香を焚き続けるように命じられましたが(出エジプト記30章7節~8節参照)、神様を喜ばせたのは、単なる香りそのものではなく、その香りが表す神様の民の絶え間ない祈りのことだったのです。祈りは神様にとって、「金の鉢」にお集めくださるほど、とても心地よく貴重なものであると、ヨハネの黙示録が教えてくれます。  「巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老はおのおの、竪琴と、香で満たされた金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである」(5章8節)。  「また、もう一人の天使が来て、金の香炉を手に持って祭壇のそばに立ち、たくさんの香を受け取った。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇の上に献げるためである。香の煙は、聖なる者たちの祈りと共に天使の手から神の前に立ち上った」(8章3節~4節)。  ダビデもこのように詠っています―「私の祈りがあなたの前に/香として供えられますように」(詩編141編2節)。確かに、私たちの祈りは、天におられる御父が喜ばれる、金の鉢を満たすかぐわしい香りとなるのです。  私たちが祈りを通じて御父をお求めするとき、御父がそれほど喜ばれる一つの大きな理由があると思います。それは、御父が単純に私たちと一緒におられることがお好きだからということだと思います。  かつて参加した黙想会の中の告解で、神父様が私に「神様はあなたと一緒におられるのが大...

新しい年を迎え、一つだけ確かなこと

 主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔の光であなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて あなたに平和を賜るように。 (民数記6章24節~26節)  教会は、主の降誕後8日目にあたる1月1日(「神の母聖マリア」の祭日)、年の最初のミサの聖書朗読を、イスラエルに伝わる民数記6章の祝福の御言葉で始めます。神様が私たちに教えてくださったこの御祝福は、私たち家族の間でお互いに送る誕生日のお祝いメッセージにしばしば引用されています。  また、私たちは英語の「Happy Birthday」「Happy New Year」「Merry Christmas」ではなく、「Blessed Birthday」「Blessed New Year」「Blessed Christmas」と言って、「主に祝福されますように」という願いを込めて祝福を交わしています。いつから、誰から始めたのかはよく覚えていませんが、気が付いたら家族全員が長年そうしています。  よく考えてみれば、誰かのために、主の祝福よりも良い願いがあるでしょうか。私たちは、誰かの一日や一年のために、主の愛と慈しみを感じることと、主の恵みと平安に満たされること以上に、良いことを願うことができるでしょうか。これらが私たち一人ひとりの幸せの根本的な要素ではないかと思います。  私たちはこの世においては、苦しみや痛みや悲しみをもたらす様々な困難に常に直面しています。私たちの幸せが神様に依存していなければ、私たちの心に不幸を生み出すことになるでしょう。たとえ世俗的な欲望で測る「幸せ」をすべて達成したとしても、主イエス・キリストを通して神様との関係を持つことができなかったとすれば、本当の幸せにはなれないでしょう。  『カトリック教会のカテキズム』の第1章(27項)はこのことを思い起こさせてくれます―「神へのあこがれは人間の心に刻まれています。人間は神によって、神に向けて造られているからです。神はたえず人間をご自分に引き寄せておられます。人間はただ神のうちにだけ、求めてやまない真理と幸福を見いだします」。  「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない」と、聖アウグスチヌスが言っています。  長い、厳しい2020年を経て、私たちはここで新しい年の始まりに立...

「視界不良」の中を歩むことは…

 飛行機の飛び方には、「有視界飛行」と「計器飛行」があります。前者は、飛行の基本とされ、主にパイロットが視認できる外界の飛行環境(地面、雲、地平線など)の目視情報に基づいて、パイロットの自己判断で飛行します。後者の場合、パイロットは一切の外界の視覚情報に頼らず、航空機上の計器のみに依存して飛行します。  有視界飛行には、パイロットの目視に頼って飛行するため,十分な視界が確保される気象状態が原則ですが、雲中や暗夜など視界が不良の飛行環境では、計器飛行なしには飛べません。ただ、視界の良し悪しとは別に、パイロットは飛行中に、飛行環境の要素に突如の変化の影響によって、「空間識失調」という平衝感覚を失う状態に陥る場合があります。それに、健康体であるかどうかに関わりなく発生します。  空間識失調に陥ったパイロットは、機体の姿勢(傾き)や進行方向(昇降)の状態を把握することができなくなったり、自身に対して地面が上なのか下なのか、機体が上昇しているのか下降しているのかを分からなくなったりして、「自分の身体の感覚と計器が表示している情報はどちらが正しいのか」という葛藤が生じてしまいます。  そのような状態では、パイロットが冷静に計器飛行で対応することが求められます。そのため、計器飛行はパイロットにとってとても重要な技能の1つであり、一定の訓練および審査を経て取得できる必要な「計器飛行証明」資格です。  「空間識失調時は計器だけを信じなさい」とパイロットたちが教わっています。すべての視覚的基準を失って安全に飛行する唯一の方法は、飛行機の計器から目を離さないことです。なぜなら自分の感覚は自分に嘘をつくからです。経験豊富なパイロットの多くは、「計器飛行証明」資格を取得する上で最も難しいのは「計器を完全に疑うことなく信じるようになることだ」と言います。すべての感覚は、飛行機が旋回していることを示しているのに、計器は旋回していないことを示しているとき、感覚を無視して計器に完全な自信を持てるかどうかが肝心です。  これは、私たちの日々の生活にも当てはまるのではないかと思います。キリスト者としての生活は、私たちが今いるところから、主が私たちに(霊的にも身体的にも)望んでおられる所への、日々の歩みから成り立っていると思います。そして、この過程は目で見るのではなく信仰によって行われます。聖パウロの教え...

弱い者の中におられる、王であるキリスト

  「あなたは王なのか」と、尋問したポンティオ・ピラトは 「この人は一体、何者なのか」と、不思議に思っていました・・・。 「この人」は、貧しく、知名度のない、小さな村で育ち、 彼の両親は、有名人でも、権力者でも、裕福でもなく、 最初に彼を訪れた人たちは、最も貧しい羊飼いでした。 「この人」は、人々を率いて戦場へと導くことはなく、 「自分の十字架を負って、私に従いなさい」と、促されました。 「この人」は、権力者やお金持ちと食事をしたり、付き合ったりしませんでしたが、 軽蔑され、無視され、見捨てられた人たちと一緒に食事をし、 価値がなく、罪人だと見なされている人々に、御手を差し伸べられました。 「この人」は、多くの召使いに仕えられた豪邸を住まいとしませんでしたが、 貧しい人、病人、傷ついた人、そして愛と癒しと慈しみを必要としている すべての人々と一緒に時間を過ごされました。 「この人」は、世間が重視するような富も財産も所有しませんでしたが、 ご自分の最も偉大な所有物―全能の神の無限の愛を 私たちと分かち合ってくだいました。 この御方が、「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、 傷ついたものを包み、弱ったものを強く」 (エゼキエル34・16) してくださる私たちの牧者であり、 私たちの王である主イエス・キリストなのです。 王である主イエス・キリストは、 「飢えている人、渇いている人、貧しい人や病人、 見捨てられた人や牢にいる人」 (マタイ25・36-40) の中で見いだされ、 最も弱い立場の人々の中におられます。 私たちが互いのために何をするにしても、 私たちは主イエスのために行うのですから、 私たちが心を開き、目を開くなら、出会うすべての人の中で 王であるキリストにお会いすることができるでしょう。 主イエスは王であり、 主の兄弟姉妹としての私たちは、主の王室に属しています。 そのため、主の王室の一員として、私たちは互いに相応しい尊厳と敬意をもって、 接することができますように。 「キリスト者よ、 自分の尊厳と気高さを自覚しなさい。 あなたが分かち合うのは、神ご自身の命なのです」と、 初期の教皇の一人が言われましたように。 [関連記事] 王であるキリストをほめたたえよ(2019.11.19)

「聖性」の始まりは「神の創造物である自分」を愛すること

 初めて聖人に関する本を読んだのは、堅信を授かった12歳の頃でした。父からお祝いにプレゼントしてくれた様々な聖人についての短い紹介集でしたが、読み始めると、とても興味をひかれ、それ以来、様々な聖人に関する本をより深く読むようになりました。  様々な聖人のことについて、また聖人から学ぶようになるにつれ、彼らの個性や経歴はそれぞれ大きく異なるものの、神様への忠実な愛、そして隣人を愛する姿勢がとても似ていることがわかりました。教皇フランシスコが次のように美しく表現されています。  「聖人たちは、光が異なる色合いで入ることができる教会の(ステンドグラスの)窓に例えることができます。彼らは、神の光を心の中に迎え入れ、それぞれの「色相」に従って、世に伝えています。しかし、彼らは皆透明で、神様の穏やかな光が通り抜けられるように、罪の汚れと闇を取り除くために、力を尽くして、努力していました」(2017年11月1日、「お告げの祈り(日曜・祭日正午の祈り)」での講和)。  以前にこのコラムで教会の典礼暦について、分かち合わせていただいたことがありますが(「日日好日」―典礼暦年を生きる)、聖人たちは、また、私が典礼暦が大好きな理由の1つです。神聖な点呼のように―例えば、ある日は幼きイエスの聖テレジア、次にアシジの聖フランシスコ、その次に、アヴィラの聖テレジア、聖イグナチオ(アンチオケ)、聖ヨハネ・パオロ二世教皇など―異なる個性や経歴を持った聖なる大先輩たちは、次々と行進して通り過ぎていき、私たちはついに「諸聖人の祭日」(11月1日)にたどり着きます。  この日には教会の歴史上の列聖された聖人たちだけでなく、天国にいる数多くの無名の聖人や、日常生活の中で神様の光を輝かせている普通の善良な人々も、含まれています。このように、聖徒の栄光ある交わりは、私たちと共に祈り、私たちのために祈ってくれる膨大な数の信仰の同伴者を与えてくれています。  「カトリック教会のカテキズム」は、「『どのような身分と地位にあっても、すべてのキリスト信者がキリスト教の生活の完成と完全な愛に至るよう召されています』。すべての人が聖性へと召されています」(2013項)と教えてくれています。つまり、私たち全員が例外なく、聖人になるように招かれているのですが、教皇フランシスコが次のように述べられています。  「私たちはしばしば...

ロザリオを祈るのが好きな理由

 ロザリオは、私が子供の頃から馴染んできたお祈りですが、大人になり、教皇聖ヨハネ・パウロ二世の書簡「おとめマリアのロザリオ」(2002年10月16日)を読んでからは、ロザリオの祈りの意義、とりわけ、その中心となる「アヴェ・マリアの祈り」についての理解が深まり、その祈り方も変わりました。  昨年、前述のことについて分かち合いさせていただいたので、よろしければお読みいただければと思います( 「アヴェ・マリアの祈り」、聖書のルーツをもつキリスト中心のお祈り )。  ロザリオの祈りは私にとって、大海原のようなものです。我ら主との祈りをより深めたい人も、祈り方を学び始めた人も、または、生活の中で何かが起こっているとき、主の助けを求める人も、ロザリオは誰にでも有益で素晴らしい祈りです。深海探検家と浜辺で砂のお城を作る子供は同じ海でも、レベルが違っていても十分に堪能することができます。これはロザリオにも当てはまるのではないかと思います。  なぜなら、ロザリオを構成する主な祈り(主の祈り、アヴェ・マリア、栄唱)と、それに伴う福音書の主イエスの主な出来事の黙想は、すべて主キリストを中心とし、聖書に基づいた祈りだからです。そのため、ロザリオという海の浅瀬でも深海でも、私たちは主イエスに出会うことができるのです。  そして、私たちの御母、聖母マリアも共におられ、私たちを率いて共に主への祈りを捧げてくださるのです。聖母マリアが言われます。 「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1・46~47) 。 「この方 (主イエス) が言いつけるとおりにしてください」(ヨハネ2・5)。 私たちがロザリオの祈りを通して、御母と共に、主イエスに出会い、主イエスに祈りを捧げることが、御母マリアは誰よりも喜ばれるのではないでしょうか。  ロザリオの祈りは、私たちを主イエスと御母の御前に置かせてくれることで、私たちにはいつもプラスな体験をもたらしてくれます。主イエスと聖母マリアと一緒に過ごす時間が多ければ多いほど、私たちの日常生活に、主と聖母の愛がより反映されることができると思います。  ロザリオを祈り、福音の玄義を黙想することもまた、私たちにプラスな影響を与えてくれます。私たちがその黙想を通して福音に浸すことで、より一層主イエスに近づくことができ、主を仰ぎ、御言葉を聞くことができ、...

「人生の本当の悲劇」は何?

  学生であろうと社会人であろうと、私たちは日常生活の様々な場面で、本や文書の中で、蛍光ペンを使って注意したい、覚えておきたい大事なことや情報をハイライトし、強調していると思います。それは私たち自身のためだけでなく、目的によっては他人のためでもあります。  ここ数日、仕事で分量の多い新旧の書類を精査していたとき、久しぶりに連日、立て続けに蛍光ペンを使っていたからかもしれませんが、ちょっと考えさせられることがありました。  蛍光ペンで文書をハイライトする活用法は、各々の目的や好みによって十人十色なので、それを論じるつもりはありませんが、活用法や目的が何であれ、役に立つようなハイライトには概ね3つの基本的なステップが必要だと思います。まず、内容をよく読むこと。次に、ここで大事なことは何かをよく考え、問うこと。そして最後に、これが本当に大事なことであり、強調すべきことである、と判断し決めることです。  これは簡単そうで、当たり前のように思えますが、この3つのステップをどのように進めていけばいいのでしょうか。その質によって、最終的には、「何が本当に重要なのか自分でも分からないほど多くのハイライトを表示する」、あるいは「自分の目的に合った適切なハイライトが表示され、自分にとって本当に重要なものは、それを見た誰にでも、すぐに分かるようにする」、のどちらかでしょう。  考えてみると、私たちが重要だと思っていることは、それに対しての私たちの価値観も表していると思います。それは、各々個人的な知見や経験など、様々な要素の影響を受けながらその判断の基準が形成されているのです。そのため、皆が全く同じ文書を読んでいても、必ずしも、皆が同じことをハイライトして強調するわけではありません。  しかし、よく考えずに、あまりにも多くのことを重要だ、と決めつけ、無差別のようにハイライトしてしまうと、自分にとって本当に重要なものや価値観を見失うことになってしまうのではないかと思います。  同じことが、私たちキリスト者にも言えると思います。聖パウロがこう教えてくれます。  「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです」(IIコリント5・17)、「心の霊において新たにされ、真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって造られた新しい人を着な...

「Nunc Coepi(ヌンク・チェピ)―今、新たに始める」

 「ニューノーマル(新たな状態、新しい日常、新しい生活様式)」―昨今のコロナ禍関連の新語・流行語の1つです。この「ニューノーマル」は、不確実性、不安定さ、警戒、そして孤立さえある状態のようであり、また、不安の高まりが伴われる現実でもあるようです。   「ニューノーマル」に関する記事を読んでいくうちに、新型コロナの世界的大感染によって私たちが直面している「ニューノーマル」と、私たちの個人生活の中で遭遇する「新しい現実」との類似点が見え始めました。   克服しなければならない病気の発見、愛する人が亡くなった後の生活、長い間大切にしてきたものの喪失、犯してしまった過ちや失敗、いつも信頼してきた人からの裏切りなど、私たちの個人生活の新しい現実は、私たちが慣れ親しんできたものとは異なる限り、様々な形で現れてきます。   新しい現実が何であれ、私たちはまったく知らない新しい領域に移動させられてしまいます。そして、私たちがそれらの手ごわい現実に引きずり込まれていくうちに、しばしば最も重要なこと、すなわち、祈りと主イエス・キリストへの依存を忘れてしまいがちになるのでは、と思います。  「私の声よ、神に届け。/私は叫ぶ。/私の声よ、神に届け。/神は私に耳を傾けてくださる。苦難の日にわが主を尋ね求め/夜もたゆまず手を差し伸べた。」と詩編77編1-2節にあるように、私たちが恐れたり、困難に陥ったりするとき、神様はそこにおられます。どんな状況であろうと、またどんな現実であろうと、神様は私たちと共におられ、私たちが神様の導きを求めることを望んでおられます。   ラテン語で「Nunc Coepi(ヌンク・チェピ)」というフレーズがあります。「今、新たに始める」を意味します。このフレーズは、主イエス・キリストの内にある新たな人生への呼びかけを完全に体現していると思います。   Nunc Coepi(今、新たに始める)。私たちの祈りの中、習慣の中、人間関係の中、仕事の中、人生のあらゆる変遷の中、そして、どんな状況に直面しても、どんな不安と悩みを抱えても、どんな過去や失敗があっても、私たちはいつでも主キリストの内に新たに始めることができ、いつでも主の導きを求め、主の聖なる御前で生きることを意識することができます。   Nunc Coepiとい...

主よ、我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない。

  8月28日、教会は聖アウグスチヌスの記念日を祝います。聖アウグスチヌス司教は、教会博士であり、4世紀乃至5世紀の最も重要な神学者・哲学者の一人です。聖アウグスチヌスを研究したことがある、あるいは少なくとも彼が残した数多くの名言のいくつかを聞いたことがある人も多いのではないかと思います。  その中で、特によく知られているのは、「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない」という名言ではないでしょうか。これは聖アウグスチヌスの最も有名な著作の一つである『告白』の第1巻の冒頭に出てきます。この不朽な名著では、聖アウグスチヌスが自身のキリストに向かう長い道のりとキリスト教への回心について論じています。  「我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない。」  誰もが落ち着きのない心を持っているからこそ、これは、誰にでも語りかけるようなシンプルでかつ直接的な形で私たちを主イエスキリストに導いてくれる、心強い言葉だと思います。  この落ち着きのない心は、私たちがそれを認識しているかどうかにかかわらず、神様を知りたい、そして神様とより深い関係を持ちたいという願望なのです。どれも簡単なことではありませんが、神様はいつも私たちのためにおられます。神様が聖アウグスチヌススの主キリストへの回心を待っておられたのように、主は両手を広げられ、私たちが主の内に憩うのを待っておられます。  もちろん、私たちがどのようにして主の内に安らぐことができるのかを問うのは自然なことですが、聖アウグスチヌスは『告白』の中で私たちに教えてくれていると思います。彼は次のように語ります。  「『人間の内にあることは、その人の内にある人間の霊以外には、誰も知らない * 』としても、その人間の内にある霊ですら知らない何かが、人間にはあるのです。しかし、主よ、あなたがご自分のお造りになった人間の内にあるすべてのことを知っておられます。・・・それでは、私に自分について知っていることを告白させてください。そして、知らないことも告白させてください。じっさい、私が自分について知っていることも、あなたが私を照らされるから知るのであり、私が知らないことは、私の闇があなたの御顔の前で明るい真昼のようになるまで、無知のままです。」(第10巻第5章)。 (*一コリント2・11の引用)  聖ア...

悲しみや苦しみからの「嘆きの祈り」

 今でもはっきり覚えています――小学5年生の時、仲良しのクラスメートとそのご両親が、小児がんで亡くなった彼のお姉さんの葬儀で号泣していたときのことと、数か月後、小児がんで右脚を切断されて病院のベッド上で、震えながら、むせび泣いていたサッカー部の元チームメートを抱きしめていた時のことです。  それが、生まれてから初めて、心の中で「なぜ」と泣き叫びながら、内面的に感じていた悲しみによる涙を流した時だった、と思います。当時の教会学校の一人のシスターに、なぜ神様に愛されている子供たちにそんなことが起こるのか、と尋ねた覚えがあるのですが、多分シスターの答えがよく理解できなかったので、何と言われたか覚えていません。  私たち皆、無数の喜怒哀楽を通して生涯を送っています。恵まれていると感じたとき、良いことや成就を経験したとき、神様に賛美と感謝を捧げます。しかし、混沌や困惑、悲しみや苦しみ、死の存在、あるいは人間の脆弱性や無力さに対する感覚によって圧倒されたときには、私たちはどのように祈ればよいでしょうか。  聖書には、悲しみや苦しみの中に捧げる嘆きの祈りの場面が多くあり、そのような状況でも、私たちは神様に向かって、心のこもった嘆きの祈りを捧げることができる、と教えてくれています。  詩編の3分の1以上(50編以上)は嘆きの歌ですー「主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。わが主よ、私の声を聞いてください。嘆き祈る声に耳を傾けてください」(130・1~2)。  嘆きはヨブ記にも頻繁に出てきますー「なぜ、私は胎の中で死ななかったのか。腹から出て、息絶えなかったのか」(ヨブ記3・11)。  また、神様に選ばれた預言者たちも、エレミヤのように神に向かって嘆き叫びますー「なぜ、私の痛みはいつまでも続き/私の傷は治らず、癒えることを拒むのでしょうか」(エレミヤ15・18)。  5つの章で構成される『哀歌』の書は全体で、バビロニア人によるエルサレムの破壊の後に感じられた痛みと苦しみを表現しています。   新約聖書にも同じようなことが書かれています。苦しんでいる人たちは、主イエスに助けを求めて叫びます。盲目の乞食バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫びます(マルコ10・47)。  何よりも、主イエスご自身はゲツセマネの園で御父に向かって嘆いています―「アッバ、父よ...