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キリスト者として、人に感謝すること

 かつては友人からこのようなユニークな観点を聞いたことがあります。  「あなたは誰かから好意や援助を受けたとしよう。その人に感謝するのは一般的に筋だと思われている。しかし、そもそもその人がしてくれた善いことに必要なすべての能力、機会、意欲、そしてその人の命、呼吸、存在そのものは、神様がその人に与えられているのです。すべては神様が与えてくださっているのだから、神様だけに感謝するのが正しいのではないか」。  そもそも、人に対して感謝の気持ちを持つことは、ごく自然なことで、なぜそんなことを疑問に思ったのか不思議でした。そして友人は「なぜなら聖書には、一人の人間が何かに対して他の人間に明示的に感謝するところがないからです」と答えました。  なるほど。結局のところ、あらゆるものを通して、あらゆるものにおいて、神様こそが究極の与え主だから、神様以外の人に感謝することは適切なのでしょうか、ということです 神様に感謝すること    「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」(ローマの信徒への手紙11章36節)、「また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです」(使徒言行録17章25節)と、使徒パウロは教えます。  そのため、私は誰かに助けられたり、誰かから恩恵を受けたりしたとすれば、神様がその人を創られ、息を吹き込まれ、助けてくれる心を傾けられたのだから、その人ではなく、神様だけに感謝すべきなのです…か。  もちろん、神様はすべてを与えてくださったのですから、神様に感謝すべきことです。私たちが感謝するとき、最終的に念頭に置くべきことは、私たちに起こるすべての良いことの与え手であり支え手であり、摂理にかなった導き手である神様だと思います。  しかし、これらの真理は、私たちが他人から受けた恩恵に感謝すべきでないことを意味している、とは思いません。人間は、神様が望まれる多くの善いことを行うために、主の御手の中の器となることは、誰も認めるところでしょう。 主の御手の中の器    例えば、主イエスは使徒パウロについて、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である」(使徒言

主イエス・キリストを通して再び始める

  父がくれた一冊の本  中学時代のある元旦の朝、父から一冊の本をくれました。橙色の表紙には、汗をかきながら崖を登っている少年のイラストが描かれ、「Press On!」(=あきらめずに一生懸命推し進める)という本のタイトルが大きな太文字で書かれていました。  著者の名前はもう覚えていませんが、欧米系の某カトリックの司祭が10代の若者たちに向け、これからの人生で、とりわけ信仰と霊的成長において直面する様々な課題について書かれた本です。  その本を読み始めると、興味深く感じ、その日の夜に一気に読んでしまった記憶があります。それ以来、毎年の年始に必ず再読し、自分自身の成長につれて毎回新たな感触や観点を受けることができました。  残念ながら、社会人になってから故郷を離れ、何度かの引っ越しを重ね、いつの間にかその本を紛失してしまいました。とっくに絶版になっているようで、何年も探していたのですが、今日の電子書籍の時代でさえもどう探しても見つけません。  その本を何度も読み返したことがあったため、全てではありませんが、幸いにも一部の内容やその司祭の教えを今でも覚えています。そして今でも毎年の年始に、まだ記憶に残っているその一部の内容を思い起こしながら、自分自身の反省と励みになる材料にしています。このようなことが今でもできるのは、やはり数十年前の元旦の朝、「これを読め」と言ってその本を渡してくれた父のおかげです。父ちゃん、ありがとう! 「過去の棚卸し」と「新たな抱負」  1年を終え、新たな1年を迎えるにあたり、程度の違いがあるでしょうけれど、私たちはおそらく一旦立ち止まって、過去一年の棚卸しをするでしょう。自分の失敗を認めたり、反省したりして、正直に自己評価します。  そして、そこから学び、より良い未来へ向かって進んでいくことを決意するでしょう。私たちは皆、より良くなりたい、より充実した人生を送りたい、より無私の心で互いを愛したい、と願っているため、新たな抱負を立てるのではないでしょうか。  問題は、なぜそうするのか、ということです。それは、私たちの心の奥底にある憧れのようなものが現れているからではないでしょうか。神様に与えられた人間の自由を行使し、より良い生き方を選択するよう、私たちを招いているものなのだと思います。しかし私たしは、自分たちの能力だけではそれを行うことができません

人生の壁は“句読点”、“終止符”ではない

  古代エリコの壁は…神の御力で崩れた     考古学的調査によると、世界最古の町と評される古代エリコ(紀元前8000年以降)の城壁は二つの壁から構成されていました―高さ約13メートル、厚さ約2メートルの外壁と、その内側の斜面の上に築かれた高さ約8メートル、厚さ約4メートルの内壁と。加えて、幅約8メートル、深さ約3メートルの空堀が外壁を囲んでいた、そのため当時の人たちは空堀の先の地上から城壁を見上げると、2つの壁が高さ20メートルほどの1つの壁のようにも見えたのだろう、と言われています。  それが、ヨシュアと彼が率いるイスラエルの民が直面した、「高くそびえ立ち、難攻不落」のように見える壁でした。おそらくその時は、「こんな要塞を突破できるわけがない」と、意気消沈していた人たちも、多かれ少なかれその中にいたのではないでしょうか。しかし、ご存知のように結果として、やはりヨシュアたちの人間的な力ではなく、神様の御力だけで城壁が崩れ落ちました(ヨシュア記6章参照)。 人生の壁    私事ですが、ここしばらく壁に直面していて、「なぜこんな壁が現れたのか?乗り越えられるのか」と疑問に思うことがあります。壁にぶち当たることは人生の一部だ、と言われています。とは言え、できることなら誰もが壁を避けたい、と思っているでしょう。  身体や心の状態に影響を及ぼすような種々の壁が、人生の旅の所々で現れてきます。そして壁が大きければ大きいほど、その向こう側が見えなくなったり、壁を突破して向こう側に行き着くことが不可能のように見えたりします。  また、人生の壁もエリコの城壁のように、単独で立ちはだかることはめったにありません。多くの場合は、苦しみや不安、落胆、恐れ、などといった深い堀を伴っています。同時に、希望の感覚を奪おうとするような種々の外的影響力が、私たちを襲ってくるときもあります。  「もし神様が私たちをとても愛しておられるのなら、なぜこのような壁が私の周りに現れるのを、許されるのだろう」と、疑問に思うことはありませんか。正直なところ、僕はそれに対する明確な答えを持っていません。  ただ、このような状況に直面するとき、どんなに辛くても、またどんなに無力感に襲われても、それでもなお、決して希望を捨てず、絶えず主の御力と助けを求め続けることが最も大切なことにほかならないのだと、僕はそう教わって

聖母マリアの初聖体

 御聖体を拝領する前に、私たちは沈黙の内に各々の心の中で祈り、相応しい心の準備をします。自分の場合、最後に「アヴェ・マリアの祈り」を祈り、それから御聖体の秘跡に与ります。これは別に子供の頃からの習慣でもなければ、誰かにそうしなさいと言われたからでもありません。  いつからそうしているかは正確に覚えていませんが、回勅『 教会にいのちを与える聖体 』(2003/04/17 “ ECCLESIA DE EUCHARISTIA ” )の中で、聖母マリアにとって、その初聖体にはどのような意義があったのかを思いめぐらした教皇聖ヨハネ・パウロ二世の考察を読んでから深い感銘を受け、御聖体拝領の直前に「アヴェ・マリアの祈り」を祈るようになりました。なぜなら、聖母マリアはいつも私たちの注意を主イエス・キリストに向けさせておられるからです(2019/09/25 「 『アヴェ・マリアの祈り』、聖書のルーツをもつキリスト中心のお祈り 」参照)。   初めてミサに与る聖母マリア    聖母マリアの初聖体がいつ行われたかは誰にもわかりませんが、その瞬間のマリア様を想像してみましょう。エルサレムかガリラヤのどこかで、使徒の一人がエウカリスチア(感謝の祭儀・ミサ)のいけにえを捧げています。主イエスの最初の弟子たちの多くが集い、マリア様もそこにおられ、初めてミサに与ります。  マリア様は「最後の晩餐」におられませんでした。主イエスがその夜、使徒たちに命じられたこと、すなわち、パンとぶどう酒を取り、ご自分の御体と御血を捧げ、そして、「私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ福音書22章19)と言われたことを、マリア様が使徒たちから聞かされたのでしょう。今、マリア様は初めてこの御聖体の聖なる秘儀に与ります。  使徒たちがパンとぶどう酒を取り、「これは私の体…これは私の血…」と言っているのを見ながら聞いているマリア様を想像してみてください。それから、御聖体を拝領しているマリア様の様子を想像してみてください―自ら産み育てた我が子の御体と御血が、再び自分の中に宿っておられるのです! 教皇聖ヨハネ・パウロ二世の2つの主な洞察  聖ヨハネ・パウロ二世はまず、自らの胎に主イエスを身ごもる聖母マリアと、御聖体を拝領する人との間にある深遠な繋がりについて思い巡らされます。ある意味で、御聖体を拝領するたびに、私たちはマリ

私たちに与えられた時間をどうするか

 「こんなことが起こらなければよかったのに…」    今年3月に海外の大学に入学した姪っ子と久しぶりにオンラインチャットしました。コロナ禍のせいでまだロックダウン実施中の現地国へ行けず、自宅で完全にオンライン形式の授業を受け、無事に第一学期を終えましたが、9月から始まる第二学期も当面の間まだ現地に行くことができないそうです。  いまだに実際の海外留学生活の体験ができない彼女は、軽く愚痴をこぼした後、「私の時代にこんなことが起こらなければよかったのに」と言いました。それを聞いた私は、ふとその言葉に聞き覚えがあると思ったのですが、その時は思い出せなかったので、そのことには触れず、彼女の気持ちを理解しながら励ましました。  数日後、その言葉をどこで聞いたことがあるかは急に思い出しました―英国の文献学者、作家、詩人の故J・R・R・トールキンの傑作『指輪物語』三部作(原題:ロードオブザリング/The Lord of the Rings)の第一部の『旅の仲間』(原題:The Fellowship of the Ring)でした。  「中つ国」(ミドル・アース)を舞台に、主人公のフロドを含む9人の旅の仲間が、邪悪な冥王サウロンを完全に滅ぼすため、全てを統べる「一つの指輪」を破壊する物語です。若き主人公のフロドが、邪悪な力の指輪を破壊できる唯一の場所、すなわち邪悪そのものの中心に運ぶことができる唯一の純粋無垢な人です。  しかし、中つ国全体の運命がフロドにかかっていることを考えると、フロドにとってそれは恐ろしい重荷となります。邪悪なものは常にその指輪を求め、彼に付きまとい、彼とその運命的な任務に加わった仲間たちを滅ぼそうとします。  物語の中で次のような会話をする場面があります。指輪の暗い歴史と邪悪な冥王サウロンの帰還を聞いた後、フロドは 「指輪が僕の手に渡らなければよかったのに。僕の時代にそんなことが起こらなければよかった」 と言います。  冒頭で、姪っ子も、無意識に軽く愚痴っていた同じような言葉ですが、私たちも様々な状況において何度同じような思いを抱いたことがあるのでしょう。それが悲劇であれ、心痛であれ、悩める時期であれ。「なぜ私なのだ?神様よ、なぜ私がこのような苦しみや悲しみを背負わなければならないのですか」。  多くの人々の命、愛する人々の命、そして多くの人々の生計、生活の

使徒パウロとオリンピック

 子供の頃から、4年に一度開催される夏季オリンピックを見るのが大好きです。個人的に好きなスポーツの個別の世界大会を見るのも好きですが、世界中のトップアスリートたちが集まって一斉に競い合う数多くの競技をたくさん見ることができるのは、オリンピックだけです。   懸命に頑張る選手の姿にパウロを重ね合わせる   アスリートたちが皆全力を尽くし、世界トップレベルの身体と運動能力や精神的な強さを最大限に発揮し、最高のパフォーマンスや技術を披露していく姿には、いつも心を動かされ、感動を受けています。  東京2020オリンピックも2年前から、大いに楽しみにしていましたが、とても残念なことに世間の賛否両論の中で、コロナ禍の暗黒の闇に覆われた無観客の大会となってしまいました。アスリートたちにとっても、このような未曾有の状況において、これほど精神的な強さが大いに試される大会はないのではなかろうか、と思います。  しかし、このような状況でも開催された以上、彼らはひたすら目標に集中して頑張って行かなければなりません。努力に満ちた長い歳月を経てここまで誠実に辿り着いた世界中のアスリートたちは、どのような逆境に直面したか、どれほどの艱難辛苦に耐え、どれほど精神的に試され、乗り越えてきたかは、本人たち自分自身のみ知ることです。  そのようなわけで、オリンピックで懸命に頑張っている多くのアスリートたちの姿を見ると、いつも使徒パウロの教えを思い出され、改めて反省し、学ばせてもらっています。 パウロは陸上競技を例えに使っている  使徒パウロは、いくつかの書簡の中で、何度も陸上競技の世界の比喩を使っています。3つの書簡では、全力で走るイメージを用いて、霊的な成長と奉仕の活発で合法的な追求を促しています。また、自分の成長と奉仕について、4回も、そのような走りに例えて語っています。  紀元前776まで遡るオリンピックは、運動能力、練習や鍛錬、および競争力の頂点を表しています。パウロはもちろん古代オリンピックのことを知っていましたし、オリンピックの前後の2年に一度のコリントス地峡で開催される「イストミア大祭(競技会)」(古代ギリシア四大競技会の一つ)もよく知っているはずなのです。  そのため、霊的に豊かに恵まれてはいますが未熟なコリントの信者たちに、パウロはこう書いています。「あなたがたは知らないのですか。競技

「聖ペトロの否認」を思い巡らす

 新約聖書(「四福音書」「使徒言行録」「ペトロの手紙」)を通して、使徒聖ペトロについてのことや彼の言行、教えを読んだり、思いを巡らせたりしていくうちに、多くのことを教わりながら、聖ペトロに親近感を覚えるようになり、色々な意味で共感できるところもあるように感じています。 常に素朴で正直な心で、主に従う   聖ペトロは極々平凡な人間であり、初めて主イエスに出会った時から終始、主の御前では素直で、率直な気持ちや思いを隠すことなく―「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」(ルカ福音書5章8節)―ありのままの自分の弱みをもって、素朴で正直な心をもって主に従っています。  僕としては、福音書に記されているペトロの一言一句を「聴き」、それぞれの場面を「観る」ようにすることにつれて、ペトロにとって主イエスがどれほど大切な存在であるか、ペトロはどれほど主を慕っているか、どれほど主から離れずにずっと一緒にいたいと思っているか、どれほど主イエス・キリストを心から愛しているかが伝わってきます。  たとえ主イエスの御教えをまだ十分に理解していなくても、たとえ自分の信仰がまだ十分でなくても、たとえ周りの様々な事情や誘惑、自身の弱さなどによってつまずいたり転んだりしていても、あきらめず主の助けと力を求め続け、心から悔い改め、迷うことなく主を信じ、主に従い続けることを、ペトロが身をもって範を示し、教えてくれているような気がします―「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ福音書16章16節)「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉をもっておられるのは、あなたです。」(ヨハネ福音書6・68~69節)。 「否認」なのか「裏切り」なのか  ある人たちにとって、ペトロが「主イエスを知らない」と三度言ったことを、「ペトロの裏切り」と見なしているようです。また、主を(実際に)裏切ったユダのほか、「ペトロも主イエスを裏切ったのだ」とし、この「二人の裏切り行為」が比較されることも少なくないようです。  どうしてペトロにそのようなレッテルを貼っているのか、僕には理解し難く、悲しく思っています。  「人を裏切る」ことの意味や定義を議論するつもりはありませんが、そのような行為には計画的な利己動機や意図が込められているのではないでしょうか。私たちは、当惑したり混乱したりする瞬間に、誰かや何かを